お鶴明神

Go Index 日本の川へ戻る 北上川水系に戻る Last update 2002/04/20












お鶴明神

 慶長十一年(一六〇六年)、仙台藩では治水策として北上川の流路変更を計画、初代登米領主・伊達相模宗直は、上沼大泉から浅水に至る「六.六五km」を築堤し、豊沃な登米耕土の基礎を確立した。しかし、その後も堤防が決壊し、水害を蒙った。続いて二代伊達若狭宗勝も決壊の渦を断つため、更に三年の歳月を費やして修復し、民生を安んじた。
 世にこの堤防は、相模土手・若狭土手とも云われる。
また、伝承ではあるが、堤防を築くに当たり生き土手にすればどんな激流にも押し切られないとの迷信から、たまたま弁当を運んできた「お鶴」を人柱にした。以後、この堤防は決壊を免れたという。付近には、二坪余りの「お鶴の涙の池」があったが、明治の初めに埋没した。現在の池は平成十年三月に復元したものである。お鶴の素性は不明だが、岩手県南部の出身で、村の彦総長者の家で働いていた娘であったと伝えられる。村人達はこれを哀れみ、小祠建て、「お鶴明神」として、その冥福を祈ったという。
 現在でも旧暦の三月十五日にはお鶴明神講の方々が、のぽりを立てご神体を奉り、冥福を祈っています。
平成十年三月
中田町教育委昌会


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