胆沢川 大歩橋付近

Go Index 日本の川へ戻る 北上川水系に戻る 胆沢川へ戻る Last update 2003/10/12


大歩橋から下流をみる



大歩橋(おあごはし)

大歩橋から上流をみる

寿庵堰旧取水口跡(右岸)
河床のコンクリートは円筒分水口ができるまで使用されていた平堰跡

寿安堰平堰(導水路)跡(近世)





寿庵堰旧取水口
 寿庵堰は、今から約三百八十年ほど前に後藤寿庵によって起工され、千田左馬父子・遠藤大学ら(いずれも前沢町の住人)によって受け継がれ完成された、胆沢平野の主要な農業用水路の一つです。
 ここから北へ約三百メートル、大歩(おあご)橋から西へ数十メートルの胆沢川右岸が、もともとの取水口と伝えられている所です。当初はそこ(御前淵と呼ばれた)から隧道で取水したようです。昭和二十年代のキャザリン、アイオン台風でその跡はすっかり失われてしまいました。
 その後、胆沢川の川底がどんどん下がり、しかも流路が北寄りに変わって行ったために河原に石を積んで導水路を作り取水口とするようになったものです。その導水路の跡は、現在でも橋の西側の河原に残っています。また、橋の東側の右岸沿いには古い平堰跡が残されています。
 現在は胆沢第二発電所から放流された水を、トンネルと平堰で円筒分水まで導水しています。
 平成七年三月
 胆沢町教育委員会

(国道397号脇の案内板)



寿安堰旧取入口跡
 「寿安堰」開さくの祖後藤寿庵は、寿安堰へ胆沢川の水を引くための取り入れ口をこの地に求めた。現在も昔の面影を残すように右岸側は三メートル程の切り立った崖になっており、導水路はこの崖に沿うように掘られた。
 当時の胆沢川は名だたる激流であり、工事は洪水等により何度も破壊され、苦難の連続だった。キリシタンであり、外国人宣教師に学んだ寿庵は、運転機(現代のクレーンのようなもの)を考案し、大きな石を動かし堅牢な石垣を築き、この難工事を完成させたと言い伝えられている。
 現在の取入口跡は、昭和三十二年に円筒分水工が完成するまで使用されたものである。
 十二年六月
 後藤寿庵顕彰会

(大歩橋右岸の案内板)




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