千貫石地区灌漑排水事業完工記念碑

Go Index Back 北上川水系に戻る 宿内川に戻る 千貫石ダムに戻る Last update 2004/07/02




この施設の三百年の恵みを後世に遺す
岩手県営千貫石地区灌漑排水事業完工記念
 昭和六十年十月十六日
  岩手県知事 中村 直書

 千貫石溜池の由来
 この溜池は伊達藩最北端の旧金ヶ崎村・旧相去村(北上市相去町・金ヶ崎町 六原)農民が水不足に悩む事情を酌み、普請奉行川田勘助氏に命じ天和 二年(西暦一六八二年)に起工された。この工事は宿内川本流の堤袋に堰堤を築くもので、 初めの三年間は毎年大破するなど十ヶ年を要する難工事で元禄四年(西暦 一六九一年)に竣功した。しかし、万一を懸念の余り人柱を立てることになり、女性 を探し買求めて生き埋めにし、堤の主とするなどの悲劇が伝えられている。
 一方築堤工事と併行して貞享元年(西暦一六八四年)より元禄四年(西暦 一六九一年)まで七ヶ年を要し水源を霊峰駒ヶ岳に求め嶽堰の水を本増沢に 注ぎ、堰場に集め六一kmに及ぶ山の腰を廻る水路を開削隧道を掘削するな どにより宿内川に導水、更には、堤下流の川田堰を含めて約一〇〇kmに及ぶ開 削を図り、今日の穀倉地帯としての基礎を築いたものである。
 その後、安永六年(西暦一七七八年)五月末日より七昼夜降り続いた大雨にて 六月六日の晩大破、宿内川は大氾濫し鶴ヶ沢・芦ヶ渕・杉本・日照等の十二の 民家を流失する大被害があった。
 これより百年の間は、旧金ヶ崎町においては宿内川の自然水を利用すると ともに若干の小溜池を設け補水とした。旧相去村においては大小四十余ヵ所の小溜 池を設けこの他に湧水を利用するなどの対策が立てられ辛じて用水の維持がなさ れて来たが用水不足は避けられず水争いが絶えず、また六原周辺の山林原野に 百余haの田形が散見されたという。
 大正十三年(西暦一九二四年)は異常な旱魃で極度に用水不足を生じたため 千貫石溜池復旧が企図され旧金ヶ崎町・旧相去村受益者による耕地整理組合が 設立され、県営千貫石農業水利改良事業溜池築造工事として昭和六年(西暦一九三一 年)三月三十一日に起工し、同十年(西暦一九三五年)十一月二十日秩父宮殿下のお成りを 仰ぎ竣功式を挙行した。その概要は堤長一七五m、堤高一九、三m、満水面積三一ha 貯水量二、四五六千m3、工事費三十二万六千円で土堰堤溜池としては全国最大であった。
 時を同じくした昭和十年(西暦一九三五年)十二月一日六原模範農村部県営開 墾計画のかんがい用水源として堤高七、七二mの増堤工事を起工し、同十五年(西暦 一九〇四年)に竣工した。
 更に県営溜池改修事業を昭和二十九年(西暦一九五四年)に、災害復旧事業を昭和 三十四年(西暦一九五九年)に、県営千貫石老朽溜池事業を昭和三十五年(西暦一九六〇 年)十二月より同三十七年(西暦一九六二年)十二月に、岩手県営千貫石地区灌漑排水 事業として、水路改修七、二三八m堤防波返補強二〇二mを昭和五十一年(西暦一九七六年)五月 十一日に起工し、事業費七億八千三百万円で同六十年(西暦一九八五年)十月竣工等度々の 改修を積み重ね、現在の概要は、堤長二四七、五m、堤高三〇、七m満水面積四八ha、 集水面積二、三〇九ha、貯水量五、一五九千m3、年間取水量二一、〇七六千m3である。  この施設は、今回のような土木技術の無い時代に吾々の祖先が血と汗を流し、 英知を結集した努力の集積の上に造られ、三百年に亘り維持管理され度々の 旱魃にも水枯れすることのなく旧金ヶ崎町・旧相去村の水瓶としてのの役割を果し てきた偉業を称え敬意と感謝を捧げ、この度の岩手県営千貫石地区灌漑排 水事業の完工にあたりその由来を記し、後世への遺産とする。
    千貫石土地改良区理事長 山路勝男


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