おいし観音

Go Index Back 北上川水系に戻る 宿内川に戻る 千貫石ダムに戻る Last update 2004/07/02


千貫石ダム堰堤右岸下







千貫石ダム右岸の山上

おいし観音

北上市澤部光輝謹書



慰霊
おいし観音建立の由来
 千貫石堤は天和二年(西暦一六八二年)に起工し 元禄四年(一六九一年)まで十ヶ年を要して 竣工した 起工より三年間は 毎年土手が破れたので貞享元年(一六八四年)伊達藩の普請奉 行 川田勘祐が取立てをなし長さ六十八間(一二四米)高さ十三丈(四〇米)の堤防を築き 石を 裏込めし 更に人柱を立てたのであった 人柱は 釜石かから おいしという十九才の女を (錢千貫)にて買い求め 石の唐櫃(からと)に封じ 二才の牛もろとも 百年の年季 を限り 生き埋めしたのであった川田勘祐の邸は 仙台城下中島にあったが それ以来 毎夜「闇いぞ 闇いぞ」という声がしたので世間では女と牛の怨霊であろうとうわさしたとい うまた 川田一族は二十一回りまで死に絶えたとか おいしに掛り合いを持った家は  代々他人継ぎにて一切子供が生い立たないとか言われている この人柱後六十年 宝暦元 年(一七五一年)に堤の底樋が大破 また百年の年季ながら 約九十年経た安永六年(一七七七 年)五月三十日から七日七夜降り続いた細引雨で 六月六日の夜 堤防が絶破 田畑や採草 地の荒敗甚大 流失家屋十二 人畜の被害多数とある 決潰のさい 二十尋(三六米)ほどの 青光りが流れ出たので 人柱の怨霊といわれたという 下って 昭和五年(一九三〇年)から 県営事業を以って大改築着工 同十五年竣工 今日に及んでいるが 昭和五〇年(一九七五年) に至り 千貫石部落の婦女の間に たびたび人柱の夢枕が竜ので 同所の千葉時江 宮 舘サエ子 宮舘キフ等がおいし観音建立を発願 千貫石土地改良区に賛助を求めたところ 欣然同意 直ちに役員会にはかり 理事長 阿部久男を建立委員長に推し 役員や関係者 及び全組合員二千余名 並びに篤志者等の喜捨を仰ぎ おいし観音を建立し 人柱の冥福 と千貫石堤の永久安泰を祈願することになったものである
       昭和五十一年
               題額金ヶ崎町長相原林美
                渡辺房雄撰文並書丹

おいし観音像由来
 この像は元禄4年(1691)に完成した 千貫石堤の主として牛と共に人柱となったと 伝えられる19才の乙女おいしの怨霊を哀れ んだ地元民が、昭和51年に建立供養したも のである。臥牛像を配した眼下には2千ha の沃土が開け、湯煙りが山里の旅情を慰め、 西方には千古の緑奥羽連山が凛々として迫る。

金剛庵築提妙石禅大姉

牛頭観音

順誠院釋殉水教義居士
昭和二十年十月十日
千貫石溜池底樋調整の際の殉職者
小沢初男 行年三十二歳


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