逆法印の碑(宗慶和尚の墓)

Go Index Back 北上川水系に戻る 江合川に戻る Last update 2003/11/26




開山法印宗慶大和尚碑

逆法印の碑(宗慶和尚の墓)
龍石寺を開山した箱泉寺第十世宗慶和尚(法印)の墓。宗慶和尚は死に際し、長年水害に苦しむ農民救護のため遺骸をこの地に逆さまに葬ることを遺言したので

逆法印の墓
 前谷地字龍ノ口山「龍石寺」山門前
 第十九世住職興長法印、正徳四年(一七一四)の建碑と伝えられる。
 昔、江合川が増水するたびに堤防がこわれて水害騒ぎが起こり、民百姓の苦しみは大変なものだった。この天災を救うため龍石寺を開山した宗慶和尚(法印)は、「私が死んだら必ず逆さに埋めてくれよ、そしたら水害は起こらない」と由言を残してこの世を去ったが、人徳の高い和尚を逆さに埋めるにしのびなかった村人たちは、和尚の遺骸を順に埋めてその冥福を祈った。ところが、その後も水害が絶えずこの地を襲ったので、村人も意を決して和尚の遺骸を掘り起こして逆さまに埋めたところ、水害はおこらず豊かな村がつくられた。
(昔からの言い伝えから)。
 龍石寺は箱泉寺(北村箱清水)第十世宗慶和尚が開山したが、前述のことにより通称「逆法印」として崇められている。
 宗慶和尚は、寛文元年(一六六一)逝去。
 昭和五十五年十一月一日建之
  河南町教育委員会

切り通し(旧玉造川流路)
 (前谷地字定川)
 現江合川は、昔龍石寺前を南下、河南町を貫流して定川となり、矢本町大曲で石巻湾に注いでいた。河南町では、その頃玉造川と称していた。玉造郡から流れて来ていたからである。
 旧前谷地村は、天正年間から新田開発が進められていたが、玉造川のはんらんで大きな被害を受けた。元和年間(一六一六頃)、江合川は、和渕で北上川と合流させることとなった。玉造川は、龍石寺前で締切られたが、しばしば破かいされた。そのため「切通し」の名がついた。
 箱泉寺十世宗慶和尚(龍石寺開祖)は、洪水の惨状を見るにしのびず、法華経八軸の経文を一字一石に書写して土手の切戸に埋めた。それ以後、破かいされることがなくなったという。
平成七年三月二七日建之
 河南町教育委員会


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