米山町土地改良区県営圃場整備事業完工記念碑

Go Index 日本の川に戻る 北上川水系に戻る 旧北上川に戻る 旧迫川に戻る Last update 2006/03/04


登米市米山町西野字新町
世界測地系 北緯38度37分44秒,東経141度11分29秒



登米郡米山町土地改良区県営圃場整備事業完工記念碑
沃野千里
   宮城県知事 本間俊太郎
 本事業施行地域は仙台市の北東七十キロメートルに位置し、北上川支流の新旧迫川に囲繞された広大な低湿地帯で、登米、遠田の二郡三ヶ町に跨る二,三〇〇ヘクタールである。
 この地区は、往年北上川および迫川の遊水地的役割をはたしていたが、明治四十四年より昭和九年にわたる北上川改修工事、昭和十五年新迫川の開削工事等治水事業の進捗によって開拓可能地に変り、当時の食料増産計画とも合致し、急速に造成された耕地である。
 又、地区は昭和初期より昭和二十八年までにわたり開鑿或いは新地整理事業により十アール、二十アール区画に整理されているが、用排水は未分離で且つ農道の幅員が狭く、農業経営の近代化が阻害されていた。
 更に又、基幹用排水施設も不安定な水源をもとに数十ヶ所におよぶ小規模揚水機場をもって対処しているので用排水被害が甚大であった。
 この状況の中、昭和十九年より昭和二十五年にわたり度重なる大洪水に見舞れたため沿岸開発と治水の両面から北上川改修の検討がなされ昭和二十八年北上川、翌二十九年迫川の河川改修全体計画が樹立し、この計画の一環として二十九年より旧迫川改修工事が実施される運びとなった。
 この期に於て内部から要請される土地改良の方向と治水方式が一致し、昭和四十一年旧迫川地区国営かん排事業が着工し、昭和五十三年で完工、同事業と併行して附帯県営事業も昭和四十五年着工し、平成二年度をもって完工した。
 本事業はこの国営全体計画の関連事業である団体事業に変り、末端用排水施設の改修と再区画整理を実施し大型機械の導入をし土地と労働の生産性を向上し、平地農村地帯として発展するための基盤整備である。
 このため受益面積四,九〇〇ヘクタールを大規模圃場事業として昭和四十六年より着手すべく同事業推進協議会並びに申請人会を発足し、関係手続きを進めたが同意取り纏めの段階で一部受益者の強行なる反対により一括施行を見合せた。しかし、地域農業の発展と国県営事業の目的達成のためにも放置する訳にも行かず同事業推進競技会は会議を重ね地域を十三地区に分割し賛成の多い地区より順次実施する事で推進した。それにより南方迫土地改良区管内に於ては旧迫川第一、第二地区が申請手続きをし昭和四十七年着工となった。
 当土地改良区管合に於ては米山農協青年部、水稲部会から地域農業振興には圃場整備が是非必要との再三の要請により町、土地改良区とも町議会、総代会に諮り推進態勢を整え推進した。その結果、米山農協管内の大半の地域である旧迫川第三地区(中津山地区)受益面積三二五・七ヘクタールが昭和四十八年三月施行認可を受け昭和四十八年度着工となった。
 又、昭和五十年九月には旧迫川第八地区(西野地区)受益面積七〇二・一ヘクタール、同五十二年五月には旧迫川第九地区(足洗地区)七五・七ヘクタール、同五十四年九月には旧迫川第七地区(短台地区)受益面積一,一五九・三ヘクタールが各々施行認可を受け昭和四十八年度着工より施行認可の順に実施され平成二年度までの十八年間で事業の完工を見るに至った。
 この間、事業推移と共に農業を取り巻く情勢の変化が激しく、オイルショックによる資材の高騰、米価の低迷、生産調整、四年続きの冷害等は事業推進に意欲を失わせる危機的事態に直面したが、これらを克服、特に減反製作に於ては町、農協、生産組合等農業団体が一体となり麦、大豆の事前、事後転作で対応し、事業推進に寄与した。
 ここに国県営かん排事業と圃場整備事業の完工により近代的営農の基盤が整備されかっての湿田地帯の様想を一変し、宮城県北の穀倉地帯として豊かで住みよい郷土づくりとしての貢献は計り知れないものがある。
 本事業完工にあたり着工以来国、県、町をはじめとする関係各位の御尽力、並びに組合員各位に感謝し、ここに記念碑を建立し、末永く後世に伝えんとするものである。
  平成三年六月十八日
    碑選文 登米郡米山町土地改良区
            理事長 木村誠志


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