北上川改修工事漑要

Go Index 日本の川に戻る 北上川に戻る Last update 2003/05/18


明治44年から昭和10年まで行われた北上川第一期改修工事の記録をデジタル化したもの
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北上川改修工事漑要

一 總説

 北上川の流域は岩手、宮城の兩縣に跨り其面積一萬七百十九平方粁を有する大河にして、流路延長三千七百七十八粁(内幹川二百四十四粁)、灌漑面積五萬六千四百ヘクタール、航路延長六百五粁なり。
 北上川筋岩手縣内に狐禪寺、宮城縣内に米谷、和淵等の如き狹隘部あり、一朝豪雨に際しては、狐禪寺の狹隘部は山間部に屬するを以て破堤すること無しと雖も、上流部を一大湖水たらしめ、又米谷及和淵の狹隘部は其上流の水位を上昇せしめ破堤の因をなすを以て古來水害甚しく、特に其下流部沿川の平野は洪水氾濫の慘害極めて多く、又北上川河口は流下土砂の堆積夥しく、水深の維持極めて困難なるものあり。
 本川筋に於ては曩に航路改良を目的として、岩手縣盛岡市より宮城縣石卷市に至る一百九十六粁間を、工費一百二十三萬五千六百五十六圓を以て、明治十三年度より同三十五年度に亘り、低水工事を施行し一旦竣功を告げたり。
 本北上川改修工事は洪水防禦を目的とし、明治四十四年度より大正十年度に至る十一箇年度繼續事業として工費八百萬圓を以て、左岸宮城縣登米郡錦織村、右岸同縣同郡上沼村以下海に至る四十九粁間を改修するものなりしが、大正五年度に於て竣功期を同十一年度に改定し、又其後歐州大戰亂以後物價騰貴甚しきため、工費二百六十二萬二千圓を搖zして一千六十二萬二千圓と爲し、竣功年度を二箇年度繰延べ、同十三年度竣功のことゝなりしも、尚急激に勞銀物價の昇騰を來したるため、更に工費二百七十萬を搖zして一千三百三十二萬二千圓とし、其竣功年度を六箇年度延長して昭和五年度とせり、然るに昭和三年度に至り新北上川筋に築設中の可動堰に設計變更の必要を生じ更に工費一百萬圓を搖zして、一千四百三十二萬二千圓とし、竣功年度を一箇年度延長して昭和六年度とせり、昭和六年度に於て財政緊縮に因り工費六萬四千五百四十六圓を減じ、總工費を一千四百二十五萬七千四百五十四圓とし、更に竣功年度を一箇年度延長して昭和七年度とせしも、昭和七年度に至り本改修工事の効果顯はれ、洪水に際し北上川河口に土砂の堆積減少せるに依り、更に工費十三萬圓を追加して、北上川河口石卷突堤を施行し、竣功年度を一箇年度延長して昭和八年度とせり、然るに昭和八年度に於て一萬五千三百五十五圓を節減し、總工費を一千四百三十七萬二千九十九圓と改めたり、而して工事の都合により昭和九年度に繰越し昭和十年三月全く竣功したり。

二 改修計畫

 北上川改修の目的は高水防禦を主とし傍ら航路を整正し、併せて排水の便を圖らんとするにあり、而して改修計畫に採用したる高水量は北上川本流毎秒五千五百七十立方米、迫川同一千二百八十立方米なりとす。
 計畫の主眼とする所は宮城縣登米郡豊里村鴇波地内に於て本川を締切り、本吉郡柳津町地内にて同所以下之を合戰谷に附替へ、野川町地内に於て追波川に合せしめ、以下追波川に改修を施し以て之を本流たらしめんとするにあり。
 本改修工事のため柳津町以下舊川沿岸に於ける廣大なる平野の浸水を根絶し、又舊川に合流する迫川の高水流下を急速ならしめ、同川沿岸の水災を輕減すると共に排水を良好ならしむるのみならず、航路の改良を見る等各種の利uあり。
 柳津町以下新北上川には、高水量毎秒五千五百七十立方米の内四千七百三十立方米を通ずる河積を保たしむるものとし、新川河幅は柳津町に於て四百四十五米とし、合戰谷に於て二百九十米乃至四百四十五米とす。
 合戰谷新北上川筋の兩岸山麓に接する所には、築堤を要せざれども、平地部には築堤を施し、幅百十米乃至百四十五米の掘鑿を施して流積を與ふ。
 新北上川筋野川町地内に可動堰を築造して、新舊兩川への流入水量を調節し、併せて附近土地の灌漑に便す、又合戰谷新北上川筋に數箇所の床固を設けて新川河床の低下を防止す。
 野川町地内に於ては新川を追波川に合せしめ、同所以下の河幅を四百五十五米乃至七百二十七米とし、築堤を施し浚渫を行ひ、所要の河積を與ふるものとす、而して追波川右岸二俣村地内には延長五千九百九十八米の水路を設け、其下流端に追波川と航路の連絡を保ち尚逆流を防止する爲め水門を設く。
 柳津町舊川分流點には閘門を設けて、既往航行の便を失はざらしめ、又洗堰及水門を設けて平水量(毎秒百三十立方米)を送り、以て舟運の便を計り且高水時には本川高水量五千五百七十立方米の内八百四十立方米を分疏す。
 柳津町より上流縣境改修起點迄は、日根牛の如き狹隘部に限り引堤を爲し河幅の擴張を爲す外河?を現?に委ね舊堤を擴築するに止む。
 柳津町以下石卷市に至る舊川筋には工事を施さざるも、流末には左右兩突堤を設くると共に、浚渫を施して水深を維持し舟運の便に共す。
 堤防は天端幅七米三、天端餘裕高一米二乃至一米五、表裏共二割法とし、水勢の激衝する箇所の一部は三割法とし、且石張護岸を施す。
 從來舊堤に樋管又は水路を設け用排水に便ぜし關係上改修工事に伴ひ、之等の改築、付替等の必要生じたるものあり、又合戰谷新北上川筋掘鑿に伴ひ、用水路、排水路、縣道等の遮斷せらるゝものあり、之等は凡て附帶工事として處理するものとす。

三 施行状况

 本改修工事は明治四十四年度の創業にして、宮城縣桃生郡野川町に野川工區事務所を、又登米郡登米町に登米工區事務所を開設し直に工事に着手せり。
 大正六年度野川工區事務所を廢止し、之に代ふるに牡鹿郡石卷市に石卷工區事務所を設置せしが大正七年度に於て登米及石卷兩工區事務所を廢止し、新たに石卷市丸軒町に北上川改修事務所を設置せり。
 初年度に於ては專ら準備作業に從事し、翌年度工事に着手し、大正五年度迄主として柳津町分流點上流部の堤防嵩置工事竝に下流部の掘鑿、浚渫、築堤を施行したり、大正十三年度迄には排水路掘鑿、水門及洗堰の築造、北上川河口石卷突堤工事に着手し、昭和六年三月迄に北上川河口石卷突堤を除き殆ど竣功するに至り、同年三月十二日新北上川に通水したり、又石卷突堤の追加工事は昭和七年度に着手し昭和十年三月竣功せり。

掘鑿及び浚渫

 掘鑿の主なるものは柳津町分流點より下流野川町地内に至る延長約一萬二千米の區間にして、大正元年度着手し、機械掘鑿、人力、馬力等により四百三十八萬六千五百立方米餘を掘鑿し、築堤用土及埋立用土に利用したり、此工費一百三萬一千圓餘にして大正十四年度略竣功したり。
 浚渫の主なるものは舊追波川筋野川町地内以下海に至る約一萬五千米の區間にして、大正元年度工事に着手し、水中は喞筒式浚渫船及バケット式浚渫船を用ひ、水上は掘鑿機、人力、馬力等により浚渫運搬として築堤用土又は埋立用土に利用したり、此土量六百八十七萬四千九百立方米にして工費一百七十萬五千一百圓餘を要し、又北上川河口は航路維持のため主として、喞筒式浚渫船を用ひて一百二十一萬五千二百立方米餘を浚渫し、工費九萬一千七百圓餘を以て、昭和三年度全く竣功せり。

築堤

 上流縣界より下流柳津町に至る延長約二萬三千米の區間の堤防には、大部分嵩置を施し、合戰谷新北上川筋右岸及野川町以下海に至る舊追波川筋兩岸平地部には築堤を施したり。
 嵩置は大正二年九月宮城縣登米郡錦織村地内左岸嵯峨立堤防より着手し、左岸嵯峨立堤防、西郡堤防、米谷堤防、日根牛堤防、黄牛堤防、竝に右岸大泉堤防、上沼淺水堤防、水越堤防、登米堤防、鴇波堤防を施行せり、而して之等の嵩置用土は堤外及附近民有地より人力、馬力を以て九十九萬二千立方米餘を運搬し、延長二萬三千四百米餘を施行し、工費三十萬五千九百圓餘を要し、大正十六年度に至り全部竣功せり。
 築堤は大正元年九月宮城縣桃生郡大川村地内右岸横川裏築堤より着手し、左岸柳津築堤、成田中島築堤、中野十三濱築堤、右岸鴇波築堤、石生築堤、丸山築堤、樫崎築堤、成田小船越築堤、追波川締切堤、大森rn築堤、rn釜谷築堤、長面築堤等を施行せり、此土量約六百十二萬七千五百立方米にして内五百二十五萬二千九百立方米餘は掘鑿及浚渫土を利用し、其他は築堤工事にて特に機關車及人力、馬力を以て運搬したり、而して築堤延長約三萬二千一百米餘、工費七十萬二千一百圓餘を以て昭和十年一月竣功せり。

排水路

 改修工事に伴ひ左記四箇所に排水路開鑿の必要生じたり。

新小川

 柳津町地内北上川左支新小川は逆流に依り氾濫するを以て、新たに延長一千八十米餘の水路を開鑿し、吐口を下流に移せり、本工事は昭和二年十一月着手し、工費三萬二千一百圓餘を要し、昭和六年二月竣功せり。

二俣水路

 舊追波川を桃生郡大谷地村地内にて締切るため下流に通ずる航路を設くる必要生じ、又舊堤に存する多數の排水樋管に代りて完全なる排水をなさしむるため、追波川締切堤裏より大川村rnに至る延長五千九百九十八米の區間に亘りて、新たに水路を開鑿せり、本工事は大正八年十二月着手し、工費三十一萬五千四百圓餘を以て、昭和六年七月竣功せり。

皿貝川水路

 桃生郡野川町及同郡橋浦村地内に於て新堤に依り遮斷せらるゝ六箇所の排水路を皿貝川に合せしめ、皿貝川に改修を加へ河積を揩オ、其吐口を更に下流に延長せり。本工事は大正九年三月着手し、主としてプリストマン浚渫機を用ひ、七十四萬七千五百立方米餘を浚渫し、施行延長約一萬九百米、工費三十四萬四千三百圓餘を要し、昭和三年七月竣功せり。

釜谷水路

 桃生郡大川村地内の排水路、新堤に依り遮斷せらるゝため、新たに右岸新堤沿ひに延長二千七百米餘の水路を開鑿せり、本工事は大正八年六月着手し、主として人力に依り二十一萬二千七百立方米餘を掘鑿し、工費十三萬一千四百圓餘を以て、大正十四年一月竣功せり。

護岸水制

 大正五年三月以降に於て、鴇波締切堤護岸、脇谷護岸、野川護岸、追波川締切堤護岸、三輪田護岸、rn護岸、針岡水制、合戰谷護岸、十三護岸、北上川河口石卷水制等を施行したり、其延長八千四百米餘、工費二十三萬二千二百圓餘を要し、昭和十年三月竣功せり。

洗堰及閘門

 北上川締切箇所に於ける登米郡豊里村鴇波地内に鴇波洗堰、桃生郡桃生村脇谷地内に脇谷洗堰、脇谷水門、脇谷閘門を築造せり。

鴇波洗堰

 水通部は内法高一米三五、幅九十四糎、長三十七米のコンクリート暗渠十八連より成り、此上部に石張を施して溢流せしむ、其幅員平均五十一米なり、而して右岸寄暗渠一連の上部に魚梯を設けたり。
 暗渠基礎には二米四正方形、長二米七乃至五米五のコンクリート井筒を用ひ、暗渠上流には幅員約十米、厚九十糎のコンクリート水叩を設け、其上流端に長三米六の井筒を水路全幅に亘り布設し又下流には幅員約二十五米、厚平均一米二のコンクリート水叩及幅員約十米の石張を設く、大正五年二月の起工にして直に基礎工事に着手し、一箇年間に土量三十一萬七千立方米餘の基礎掘鑿を行ひ、此土砂を利用して周圍に假締切堤を造り排水設備をなし工事を進めたり。
 床掘の進むに從ひ基礎固に着手し、コンクリート井筒の沈下を開始し、載荷重試驗を行ひたる後内部にコンクリートを填充し、此基礎上に長五米五、内法高一米三五、幅九十四糎の鐵筋コンクリート樋管を設け、兩端にはコンクリート擁壁を造り、其上部に石張を施し溢流部となしたり、工費三十五萬九千七百六十九圓を以て、昭和七年三月竣功せり。

脇谷洗堰

 水通部は内法高一米六五、幅二米三五、長九米のコンクリート暗渠六連よりなり、其上部幅員約二十二米を溢流部たらしめ、右岸寄一連の上部は魚梯たらしむ。
 暗渠には鋼製扇形扉を備へ水位の昇降に應じ、脇谷閘門前扉室の發動機又は電動機或は人力を用ひて開閉し、以て水量の調節を行ふ。
 大正十四年七月着手し、岩盤掘鑿の進むに從ひ假締切堤を設け排水設備をなしたるも、岩盤上の締切なれば漏水甚しく排水機數臺を用ひ漸く掘鑿を全うしたり、其後コンクリート作業に移り昭和三年七月より附屬金物の取付に着手し、同時に鉄製扇形扉の据付をなし、昭和四年六月より扉開閉装置製作並に据付をなしたり、工費四萬四千八百四十八圓を要し、昭和七年三月竣功せり。

脇谷水門

 延長百五十九米の隧道にして呑口に於ける水通部は内法高三米一、幅二米五のもの四連、此長約三十五米、之に接續する部分を内法高三米五、幅四米五の二連とし、呑口に鋼製引揚扉を備へ人力に依り開閉し、以て水量の調節を行ふ。
 昭和三年十二月着手し、昭和五年度に隧道を貫通せしめ、コンクリート作業略完成し、呑口の鋼製引揚扉及開閉附屬金物の製作据付を了し、工費九萬四千四百三十圓を以て、昭和六年十二月全く竣功せり。

脇谷閘門

 分水工事の結果北上川上下流の水位差多きを以て前記洗堰の南側に隣接して閘門を造りたり。
 全長七十三米餘、内閘室長四十六米六、前後扉室各々十三米四なり、幅員七米八にして、前後扉室共上下二枚の鋼製引揚扉を備へ、開閉には主として電動機を用ふ。
 大正十四年七月工事に着手し、岩盤掘鑿の進むに從ひ基礎コンクリートを施し、側壁を設け、前後兩扉室を造り、昭和二年六月以降石卷機械工塲に於て、扉及開閉装置其他附屬金物を製作し、昭和三年六月より之等金物類の据付を開始し、工費十八萬六百九十二圓を要し、昭和七年三月竣功せり。

可動堰

 新北上川全幅に亘り可動堰及固定堰を設く、其全幅員四百八米餘にして、幅員二米二八及二米五八の橋脚に依りて之を二十一徑間に分ち、内左岸寄一徑間、右岸寄四徑間を固定堰とし、低水路部四徑間には昇開式轉堰を其他の高水數十二徑間には降開式轉堰を設く、各水通部幅員約十七米、堰上高KP上四米一にして水位の昇降に應じ人力又は機械力を用ひて之を開閉し、水位の調節を計る。
 本体長約二十六米、其上流端に長五米乃至九米の鋼矢板を打込み、又本体下流に幅約十九米の水叩を設け、其下流端に長五米四の木矢板を打込み、地下の透水を防止す、尚本体上流の敷高を低くして砂溜とせり。
 基礎杭は橋脚部及橋臺部に長五米四乃至長十二米八、末口二十四糎内外、其他の部分に長三米七、末口十糎内外の松丸太を使用し、且基礎締切鋼矢板は之を延長して左右兩岸堤表肩に達せしむ。
 橋脚基礎版は流水の方向に約二十五米五、之と直角に十米なる矩形とし、厚一米五乃至一米八、古軌條を挿入して之を補強せり。
 橋脚の幅は二米二八及二米五八にして其上面を二段とし、下流部を上流部より約三米五低くし、該面上に縣道橋野川橋の橋脚を設けたり。
 低水路の上流部橋脚面上に鋼構脚を建て之に開閉装置を設け、機械力に依り昇開式轉堰扉を開閉す、又高水敷の上流部橋脚面上に開閉装置を設け、人力に依り降開式轉堰扉を開閉す。
 扉一個の重量は昇開式約三十五瓲、降開式約一百瓲にして其一端に吊鎖を備へ、他端の捲揚鎖に依り開閉するものなり。
 大正十四年五月築設箇所の地質調査に着手し、同年八月床掘に着手し、總土量三萬六千立方米の掘鑿をなし、同年十二月基礎工事に着手し、基礎締切は上流部にラルゼン式鋼矢板を用ひ、延長約四百三十米に及ぶ、下流には木矢板を打込み延長四百十米に達せり。
 橋脚及橋臺基礎杭は間隔九十糎毎に打込み、其他の部分にては間隔七十五糎毎に打込み、二萬五千本餘に達せり。
 大正十五年度に至り打込終りたる部分より基礎コンクリート作業を開始し、昭和二年度末迄に野川橋下の橋脚基礎全部竣功す、昭和三年度より新に上流部基礎コンクリート作業に着手し、基礎終りたる部分より橋脚コンクリートの施行を開始す。
 昭和四年六月より降開式轉堰扉當金物を取付け、同四年十月より降開式轉堰の据付を開始す。
 昭和五年一月以降、降開式橋脚の竣功に近き部分より開閉装置の取付を始め、同年七月より昇開式轉堰及開閉装置、竝に鋼構脚の組立、据付に着手し、開閉装置の一部を除き昭和五年度中に竣功したり。
 上下流の石張及水叩コンクリートは昭和六年三月迄に全部竣功し、昭和六年三月十二日新北上川に通水せしも何等の支障無きに至り、昭和六年度全く竣功せり、而して此工費九十六萬九千一百四十五圓を要せり。

床固

 合戰谷新北上川筋河床の低下を防止せんがために、分流點府縣道柳津橋より下流可動堰に至る區間に柳津床固、山田床固、合戰谷床固、成田床固の四箇所、及可動堰下流に下流床固を施行せり。
 柳津床固、山田床固、合戰谷床固、成田床固の幅員は高水敷十四米四、低水敷十八米にして長二米七乃至四米五の杉丸太を高水敷六列に、低水路七列に打込み、縱横に貫木を取付け、粗朶を敷並べ、割石を厚一米二乃至一米五に詰込み上面に石張を施し、上下流に捨石をなし、尚兩岸に三割法に石張を施したり、四箇所延長一千三百七十三米を算す、本工事は昭和三年十二月着手し、工費十二萬一千七百八十五圓を以て昭和六年二月竣功せり。
 可動堰下流床固は可動堰下流水叩に接續し沈床幅平均二十五米、木床幅平均八米を施し、一瓲内外の沈石を施したり、昭和四年九月着手し、工費七萬七千五百三十四圓を要し、昭和八年三月竣功せり。

水門

 改修工事に伴ひ施行したる、新小川、二俣水路、皿貝川水路、釜谷水路の各流末に柳津水門、rn水門、月濱第一及第二水門、釜谷水門を築造せり。

柳津水門

 本水門は北上川左支新小川流末の岩盤上に設けたるものにして、全幅十五米六を幅員一米三七の橋脚に依りて水路幅員三米六八の三徑間に分つ、各徑間共鋼製合掌扉二枚宛並に角落を備へ排水及逆流防止を計る。昭和五年三月着手し、同年度内專らコンクリート用砂利採取及床掘の準備をし、昭和五年度に於て床掘、本体、石張等を施し、鋼製合掌扉を取付け、工費一萬二千八百十三圓を以て昭和六年三月竣功せり。

rn水門

 本水門は追波川締切堤裏より桃生郡大川村rnに至る排水路流末の岩盤上に設けたるものにして、全幅二十六米を幅員二米五五の橋脚に依りて三徑間に分ち、幅員七米九の中央舟通部に高四米一上下二枚の鋼製引揚扉を、又兩側水通部は其幅員四米五五にして鋼製扇形扉を備へ、水位の昇降に應じ人力に依り開閉し、以て逆流を防止し水位の調節を計る。 大正十四年三月着手し、直に基礎床掘を始め昭和元年度迄に橋脚及橋臺の大半を施行し、昭和二年度に於て扉及附屬金物等の取付を完了し、工費十三萬八千四百三十五圓を以て昭和五年三月竣功せり。

月濱第一及第二水門

 皿貝川水路最下流部に第二水門を設け、それより上流約一千八百米の箇所に第一水門を設けたるものにして、月濱第一水門は全幅二十八米餘にして、幅員一米四二の橋脚に依りて之を四徑間に分つ、水路幅員四米五五にして各水路に鋼製バランスドゲートを備へ、水位の昇降に應じ自動又は人力に依りて之を開閉せしめ、以て排水及逆流防止を計る。
 大正十三年十月着手し、大正十四年度中に基礎、橋臺、橋脚全部のコンクリートを完成し更に扉の製作に着手せり、昭和元年度以降翼壁石張、コンクリート橋架設、扉竝に附屬金物の据付等をなしたり。
 月濱第二水門は全幅十一米餘、水路幅員四米五五にして鋼製バランスドゲートを備へ、水位の昇降に應じ自動又は人力に依りて之を開閉せしめ、以て排水及逆流防止に備ふ。大正十三年十月着手し、同年度中にコンクリート工事を竣功し、大正十四年度以降扉及附屬金物の製作、据付等をなし昭和元年度に殆ど竣功し、工費六萬四千九百一圓を以て昭和三年八月竣功せり。

釜谷水門

 本水門は桃生郡大川村地内の排水路流末に設けたるものにして、全幅約十九米を幅員一米四八の橋脚によりて二徑間に分つ、水路幅員四米五五にして各水路に鋼製バランスドゲートを備へ、水位の昇降に應じ自動又は人力に依りて之を開閉せしめ、以て排水及逆流防止を計る。
 基礎にはコンクリート井筒を沈下し、井筒に圍まるゝ部分には厚一米五のコンクリート床固を施行し、上下流部には夫々幅員約五米、厚一米に割石を填充し、兩袖には止杭を基礎とせる割石積を施せり、大正十年九月着手し、井筒の製作及沈下、橋脚及橋臺のコンクリート塊積立を行ひ、扉及附屬金物を据付け、工費六萬八千六百五圓を以て昭和三年十二月竣功せり。

突堤

 北上川河口水深揄チのため、河口兩岸に突堤を設けたり、而して、西突堤延長八百米及東突堤延長六百八十七米の區間に於ては、留杭を打ち杭間に割石を填充し、天端幅二米乃至四米五、兩法二割乃至四割に石張を施したり。
 而して分水工事完成後更に西突堤延長一百米、東突堤延長三百六十米の區間に亘り鐵筋コンクリート杭を二列に打込み其間に割石を填充し、幅員四米乃至七米の突堤となし、表面に厚六十糎乃至一米の塲所詰割石コンクリートを施し、突堤兩側には一瓲以上の捨石をなしたり。
 同工事は大正七年度着手し、數度の激浪にて作業不可能の塲合多かりしも大正十一年漂砂幾分固定し水深約一米揩キに至り、大正十三年度迄に東突堤延長六百八十七米、西突堤延長八百米施行し、附近航路の状態概して良好となりたり。
 而して新北上川通水後昭和七年度に工費十三萬圓を追加して再び延長工事に着手し、長五米乃至九米、三十糎角及三十五糎角の鐵筋コンクリート杭及長一米乃至五米、三十糎角の鐵筋コンクリート貫材の製作及石材の採取運搬を開始し、昭和七年度以降鐵筋コンクリート杭を二十糎の間隙を保ちて水射式杭打法に依り打込み、貫材を取付け、塲所詰コンクリートを施行し、全延長東突堤一千四十七米、西突堤九百米を竣功し、尚左右兩突堤先端部に鐵筋コンクリート燈竿を設けたり、此工費五十一萬一千二百四十四圓を要し、昭和九年十二月竣功せり。

附帶工事

 改修工事に伴ひ樋管の改築、水路の附替、橋梁の架換、新設等の必要を生じたり、之等を表示すれば左の如し。

四 石卷機械工場

 明治四十四年度北上川改修工事着手に伴ひ、船舶機械修理製作のため同年度本工塲を開設し、翌年度より事業を開始せり。
 尚北上川改修工事の特種工作物、即ち洗堰、閘門、水門、可動堰等の扉並に附屬金物一式等も本工塲にて製作したり。
 本機械工塲の事業最も盛なりしは、大正十年度以降昭和五年度迄にして、當時使役職工二百名に達し、北上川改修費より支出する額、一箇年二十萬圓餘に及べり、而して本機械工塲に於て取扱ひたる北上川改修費に屬する總工費約二百二十萬圓に達す。

五 竣功額

 北上川改修工事竣功額一千四百三十七萬一千五百三十五圓にして其内譯左表の如し、但し表中・印は管理者負擔額を示す。


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