内務一等属黒澤敬徳碑

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Go Index 日本の川へ戻る 鳴瀬川へ戻る 野蒜築港跡へ戻る Last update 2006/09/23


黒澤敬徳(よしのり)

野蒜築港跡

紀功之碑

内務一等属黒澤敬徳碑 宮城県大書記官従六位和達孚嘉
眀治十六年二月八日内務一等属黒澤君歿矣僚友追思其勞績建碑野蒜公園
地請文于余乃據状叙而銘之君本姓清水氏諱敬徳幼名幸太郎後改吉太郎其
先遠江人世居武之江戸祖父曰又次郎父曰瀨兵衛皆仕幕府為都料匠瀬兵衛
生三子君其嫡長父歿襲職慶應元年五月幕府西征君以都料匠従在大阪兼陸
軍築造部掾属尋轉工兵嚮導官眀治戊辰之變還致職禄去而隠于商更稱黒澤
屋吉之助遂以黒澤氏焉既而官聞君長于工事二秊八月舉為土木太令史三秊
晉權少佑五秊遷土木權中属歳餘晉中属十秊又轉内務六等属眀秊官有野蒜
刱港之議命君董工事野蒜在陸前桃生郡北上川繞其北鳴瀬川自西来與石巻
相接東面大洋地勢彎環自成港澳君乃承石井土木局長旨據蘭國工師●杜崙
之説鑿運河以釃北上川設閘門以節蓄泄築石堤以捍潮衝其役至大其業至難
觀者皆莫不駭且危爲而君勵精盡瘁率先工徒山于伐海于運指揮得宜而應用
之材不乏若其運河閘門業已奏功而石堤亦告竣于十五年十月於是内務卿山
田公顕義臨而落之嗚呼人之所駭且危而克成之雖則依●杜崙氏之計畫與服
事者之竭力抑亦君董督之功居多爲後數日君獲疾歸于東亰遂不起享年四十
有五葬駒込蓮光寺配須賀氏生一男三女男敬三嗣長女適某氏餘尚幼在家君
為人質直其自釋褐従事土木者十有四秊夙夜勉勵累進以至今官及没官追賞
其功賜以金五百圓盖特典云君之在病蓐也僚友故舊訪之毎以野蒜工事為言
而絶無及其私可以見精誠奉上之志矣銘曰
 以橇以檋 于山于澤 勉焉而塞 督工之責 疊石為堤 波濤所激
 随隤随築 克底功績 厥績厥功 疇云不碩 天弗假年 人擧歎惜
 野蒜之澨 六尺之碑 託名不朽 勒以此辭
内務卿兼參議議定官陸軍中將正四位勲一等 山田顕義 篆額
晴岳佐久間雅方書 廣群鴻鐫

●・・王扁に米に田(番の上のノを除く) (ファンドールンのファン)

碑文は野蒜築港120年委員会掲載の文、その他の文献を参考としつつ、現地碑文を書き取ったものである
文字は一部異なるものがあるが、可能な限り忠実に記載した

(碑裏面)

眀治十七年二月建之

建設者姓名
石井省一郎 青柳親次
中村孝禧  佐藤守一
渡邉高久  宮城島庄吉
小山義重  中村真三
石田定時  田中源次郎
石井虎次郎 楢林高之
渡邉嘉一郎 中山孝敬
金谷市三  内田恭雄
青木敬三  大平禮亮
鷲尾政直  齋藤武治
中村義也  齋藤鐵右衛門
奥江榮一  宮内行廣
飯塚義光  杉山素輔
本多 保  米倉可直
武田几三  宇佐美房輝
高橋李治  山川純孝
井上關蔵  小林定業
大森直輔  齋藤儀右衛門
山口直友  稲田忠三
宮之原誠蔵 西川善祥
荒井三七  河合喜市
伊藤秀三  河上義雄
富田耕司  竹中信古
高津儀一  十川義真
鼠入豊武  井上清太郎
成瀬高常  窪田 寛
大塚慊三郎 笹 義潔
日下部辨二郎 相良常雄
山崎潔水  木下慶賢
山内一太郎 三吉 寛
丸山民太郎 清水光通
小柴保人  長谷川良一
朝比奈孝一 上村廡道

説明板

 内務一等属黒沢敬徳碑 、宮城県大書記官従六位 和達孚嘉(わだちたかよし)
 明治十六(一八八三)年二月八日、内務一等属黒沢敬徳君が亡くなった。同僚達が、その苦労と功績をたたえて、碑を野蒜公園の地に建てることにして、私にその文を頼んできた。そこで資料を基に、その生涯をすべてここに記すことにした。
 君は元の名字を清水といい、名前は敬徳、幼い時の名前は幸太郎、後に吉太郎と改めた。その先祖は遠江(静岡県付近)人である。代々武蔵(埼玉県・東京都付近)の江戸に住み、祖父は又次郎、父は瀬兵衛といい、みんな幕府の都料匠(大工頭)であった。瀬兵衛には三人の子どもがあり君はその長男である。父が亡くなり、その職を継いだが、慶応元(一八六五)年五月、幕府が長州(山口県付近)を攻めたときに、君は都料匠として行き、大阪に住んで陸軍築造部下級官としても仕事をし、次に土木工事の工兵嚮導官(指導者)になった。戊辰戦争(明治維新)により、職と給料を失って商人になり、黒沢屋吉之助と名前を変え、結局黒沢という名字にした。
 やがて政府は、君が工事に優れていることを聞き、明治二年八月、採用して土木太令史に任命した。三年には権小祐になり、五年には土木権中属になり、たった一年で中属になって、十年には内務六等属になった。翌年、政府に野蒜築港の計画が立てられ、君に任命して工事を監督させることにした。
 野蒜は陸前桃生郡にあり、北上川がその北を流れ、鳴瀬川がその西を流れていて、石巻の近くにある。東は太平洋に面し、土地が弓形に曲がり、土地自体が港の形になっている。君は、石井土木局長の指示で、オランダの技師ファン・ドールンの意見を基に、運河を開いて北上川を分水し、閘門を造ってその水量を調節し、また、石の堤防を築いて潮の突き上げを防ぐことにした。その工事の規模は大変大きく、その仕事は大変難しく、それを見た人はみんな驚き、心配しない人はなかった。
 しかし、君は全力を尽くして仕事に励み、工事をしている人夫たちの先頭に立って、山で木を切り、海で運送することの指揮をよくしたので、資材に不足することはなかった。こうして運河と閘門の工事はうまくいき、石の堤防も十五年十月に完成したので、内務郷山田顕義公が出席して落成式を行った。ああ、人々が驚き心配していたにもかかわらず、工事をやり通せたのは、もちろん、ファン・ドールン氏の計画と仕事をした人たちみんなが力を尽くしたことによるものであるが、君の監督としての仕事の成果もまた大きかった。
 君は、その後数日で病気のため東京に帰り、とうとう現場に戻ることなく亡くなった。享年四十五歳。東京駒込の蓮光寺に葬られた。夫人は須賀という名前で一男三女を生んだ。長男敬三が家を継ぎ、長女はある人に嫁ぎ、その下はまだ幼くて家にいる。
 君は性格が素朴で正直であり、商人をやめてから十数年、朝早くから夜遅くまで仕事に励み、だんだんと出世して現在の地位になった。亡くなった時、政府はその功績をたたえて五百円を与えた。これは本当に特別なご褒美と言えるだろう。君は、病気の時も、同僚・旧友が訪ねるたびに野蒜工事のことばかり話題にして、自分のことを話すことなどなかった。このことから誠心誠意の奉公心がよくわかる。
次にまとめて功績をたたえる。

  そりを持って かんじきを持って 山に行き 沢に行き
  努力して果たした 監督としての責任
  石を積み重ねて突堤にした場所は とても波が激しいところである
  くずれては築き上げ がんばって石を積み上げた
  その仕事とその結果は 誰が大きくないと言うだろうか(いや誰も言わない)
  天は彼に多くの寿命を与えなかったと 周りの人は みんな嘆いて残念がった
  野蒜の海岸の 六尺の(高く大きな) 石碑に
  名前をいつまでも残したいと この文章を彫り刻んだ

 平成十二年度、浜市小学校では、六年生の「総合的な学習の時間」に地域の歴史資産である「野蒜築港」を取り入れて「野蒜築港とこれからの浜市」についてのテーマで学習し、その中から、町内野蒜在住の郷土史家阿部昭吾氏のご指導のもと、小学生による「紀功の碑 内務一等属黒澤敬徳碑」の解読が生まれました。
 この学習成果と明治初頭の日本人土木技術者の業績に感銘を受けて説明板を設置します。
                平成十六年十一月吉日

寄贈 土木学会名誉会員 阿部 壽
協力
 鳴瀬町浜市小学校 浜市区 宮城県石巻工業高等学校土木クラブ
 野蒜築港ファンクラブ 鳴瀬町教育委員会 国土交通省北上川下流河川事務所


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