荒川 岩淵水門付近(鹿浜橋〜JR東北線)

Go Index 日本の川へ戻る 荒川水系へ戻る Last update 2004/02/16


鹿浜橋右岸下流堤防

鹿浜橋から下流をみる



緊急用河川敷道路

緊急用河川敷道路
[緊急用河川敷道路の概要]
「緊急用河川敷道路」は、大地震等の災害発生時に河川管理施設の復旧対策や、堤内地(堤防内側の市街地など)への救援物資等の輸送に供する目的で、昭和49年度から施工したものです。
 平常時は、原動機付自転車及び自動車の一般乗入れは禁止しますが、アスファルト舗装面でのレクリエーション等の利用は可能です。

都道318号(環状7号)鹿浜橋





芝川水門
新芝川排水機場





水位観測所と船着場







AP8.60m S22.9.16 カスリーン台風
AP8.27m S16.7.23 台風
AP7.48m S33.8.29 狩野川台風
AP7.30m S 3.8. 1 台風
AP6.48m S13.9.21 台風
AP6.30m H11.8.15 熱帯低気圧豪雨

荒川の洪水記録
荒川水位の観測を始めた昭和2年から現在(平成12年)までの74年間における各年最高水位を大きいものから並べると次のとおりです。
 過去74年間上位6例
第1位 AP8.60m 昭和22年9月16日(1947年) カスリーン台風
第2位 AP8.27m 昭和16年7月23日(1941年) 台風
第3位 AP7.48m 昭和33年8月29日(1958年) 狩野川台風
第4位 AP7.30m 昭和 3年8月 1日(1928年) 台風
第5位 AP6.48m 昭和13年9月21日(1938年) 台風
第6位 AP6.30m 平成11年8月15日(1999年) 熱帯低気圧豪雨

観測所名:岩淵水門(上)水位観測所
観測期間:昭和2年(1927年)〜平成12年(2000年)
※APとは、Arakawa Pain の略で、荒川水系における水準を表す単位です。
中央区新川にある「霊岸島水位観測所」でAP±0が定められ、現在全国の高さの基準であるTP(東京湾中等潮位=海抜)はAP+1.1344mと定められました。

国土交通省荒川下流工事事務所 事業計画課
 TEL03-3902-8745

草刈の碑

農民魂は先ず草刈から

(旧岩淵水門脇)

荒川知水資料館

船堀閘門頭頂部

(荒川知水資料館前)

船堀閘門頭頂部
 荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門、小松川閘門を、左岸側に新川水門、船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。

船堀閘門
昭和2年(1927年)着工
昭和4年(1929年)竣工
昭和54年(1979年)撤去

水準基標 岩淵基準点

この基準点は荒川の河川工事を行う時の高さの基準としています
高さAP+8.259メートル 平成十四年三月現在

平成十三年十二月一〇日移設 国土交通省荒川下流工事事務所
(荒川知水資料館前)

荒川の流れのうつりかわり

明治43年(1910年)の大洪水で荒川(現在の隅田川)のまわりの人々は大変な被害を受けました。

そこで、このような被害を二度とくりかえさないように荒川の流れを変えようと、京浜東北線から海までの22kmの放水路工事が明治44年(1911年)に始まりました。この工事のために1,068haの土地を買い、約1,300戸の家が移転しました。そして、田畑や宅地であった部分を19年の歳月をかけて、多くの人力と機械力により掘りあげて、新しい荒川を造り、今の隅田川への水の流れを、減らしました。

現在の荒川は、このようにして、昭和5年(1930年)に完成しました。

荒川の概要
荒川の水源地は甲武信ヶ岳 標高は2,475m
流域の面積は2,940km2
荒川の幹線延長は173km
流域内人口927万人

新荒川大橋左岸から下流をみる

旧岩淵水門から上流をみる

国道122号新荒川大橋

岩淵渡船場跡
 岩淵町四十一番地先

 このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。
 渡船場は、奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ六十五間(約一一七m)、幅三間(約五・四m)です。
 一般の渡船場は、人用の船と馬用の船が一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどでした。
 渡船場は、明治以降も利用され、明治三十八年(一九〇五)三月からは常設の船橋が架けられました。しかし、交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和三年(一九二八)九月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。
 平成七年三月
  東京都北区教育委員会

赤羽桜堤








Go Index 日本の川へ戻る 荒川水系へ戻る upページトップへ

kasen.net Copyright (C) 2004-