水神社

日本の川と災害 > 日本の川 > 富士川水系  > 水神社  Last update 2009/05/31


岳南鎮護 水神社

東海遺「歴史の道」
水神ノ森と富士川渡船場
 江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しまし
た。これは富士川が天下に聞こえた急流であり、推量も多いことと、幕府
を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備に
あわせ渡船の精度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。
 東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居
中船居、下船居の三箇所あり、川瀬の状況で使い分け、そこがら
上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船
居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。用いた船には定渡船、
高瀬船、助役船があり通常の渡船には人を三十人、牛馬四疋を
乗せ、船頭が五人つきました。
 渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(一六三三)以後、
船役の三分の一を岩本村が分担しました。これは交通量の増加に伴って
業務が拡大したためで岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
水神ノ森は安全を祈願L水神社を祀り、著名な「東海道名所
図絵」に記され、溶岩の路頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の
巨大な雁堤は.ここから岩本山にかけて構築されてます。
このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。
昭和六十年一月十日 富士市教育委員会





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