岳南鎮護水神社講社の碑

日本の川と災害 > 日本の川 > 富士川水系 > 水神社 > 岳南鎮護水神社講社の碑  Last update 2009/05/10


岳南鎮護水神社講社の碑
岳南の地は今でこそ農業に工業に榮える豊な土地であるが昔は吉原市附近迠廣い河原でその中に点々と多數にあった中洲を 吾々の祖先が苦心して開拓したのに始まる以前は度重なる水害に努力の結果は水泡に歸した事が多かった瀧とも云ふべき急流 富士川の治水に今日でさへ容易なものではない治水のために昔から苦心努力が續けられたが今から約三百年前に 代官となった古郡孫太夫父子が六十年に及ぶ努力をして人柱の傅説さへも殘した雁堤續いて代官江川太郎左衛門の時に 築かれた歸郷堤等が治水の根本を作った明治大正の御代より今日迠内務省に引續ぎ建設省によって今日の堤防が築かれ 又修理改修が續けられて水害を忘れる程にになり今日の繁榮を見るに至ったここで我々が忘れてはならないものは 神の恵みと立派な指導者達の苦心と治水工事にこもる我々父祖何代もの努力と魂とである 雁堤の初めから堤防の揺ぎない基礎となってゐるこの水神社境内の岩盤も立派な指導者が現れたのも實に神の 惠みである人として報恩感謝は忘れてはならない事であるが無事の時には忘れ勝である加ふるに昭和二十年終戰後の人心の荒廃に 敬神の心も失ふに至り御祭の行事もすたれたこれでは神様にも祖先にも相すまない神の惠みのこの岩の上に祖先が御祀りしたこの水神社に 親しみ境内も整へ御祭も欠かさず神恩にも先人の苦心努力にも感謝する事を忘れぬ様にしたいと云ふので昭和二十四年秋 我々は水神講社を結び昭和二十五年四月三日昔を偲び御祭をして出發点とした今後水神社が永く續け益々發展する事を ●るためにここに紀念碑を建てて我々のこの念願が廣く傅はる事を願ふるものである   昭和二十六年四月三日            水神講社員一同


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