星信平翁顕彰碑

Go Index Go River 阿賀野川水系に戻る 馬越頭首工〜大川ダムに戻る 大川ダムに戻る Last update 2003/09/21


星信平翁顕彰碑
 建設大臣 天野光晴

 大川ダム(愛称若郷湖)は、その西側の高知大内ダムに吸い揚げた水を落下させ、最大出力百万KWの揚水式地下発電所の設置をはじめ洪水調節、潅漑、水道及び工業用水等多目的に利用され、国の電源としては勿論、下流の会津盆地に計り知れない恩惠を齎らしている。これが建設事業は、建設省により昭和四十一年予備調査を開始以来、二十二年の歳月を費やして昭和六十二年十月に竣工竣工した。
 現在、この湖畔に佇って眺望するに、清澄な紺碧の湛水が両岸の翠巒を映し、巨竜の如く蜿蜒と伸び、涯は渺々として山峡の奥に消えている。近代的人工の粹が造成した超自然美の壮大な景観に瞠目するのみである。
 然しながら思いをその沿革に遡らせれば、一見、平靜なこの湖底には、先祖以来幾百年も続いた墳墓と安住の地を捨て、他所に移転を余儀なくされた沼尾、桑原の両部落をはじめ、耕地や山林を失った関係各部落の悲痛な犠牲が沈潜しているのを忘却できない。
 事業の開始時には、国策を効率的に遂行しようとする建設当局と、前記水没犠牲部落民との間に深刻な利害の対立が生じたのは当然である。この間に立って一身を挺し、両者の斡旋に努め、事業の円滑な進捗を図ったのは当時の下郷町長星信平氏であった。
 氏は本町農家の長男に生れ、幼少にし父を喪い、気丈な母の手に育てられ乍ら、強くなれ正しくあれ、との庭訓を鼓吹され、貧苦の中に在っても折れず曲らぬ強靱な性格と、常に人力の極限まで働くという闘志を体得し、個人的に鞏固な「事業体」を形成したばかりか、郷土愛に燃え政治にも参加し、町議会議員、同議長等を歴任の上、昭和四十五年下郷町長に選出された。時恰も大川ダムの建設問題が愈々具体化し、町政の中に大きな比重を占めるのに際会したのである。
 氏は予て培った高邁な識見により一つの信念を抱持していた。水没部落民の犠牲を無にせぬためには、下郷町全体としてこれを機に繁栄の途を拓かなければならない。即ち発電所の位置を町内に誘致して、その固定資産税を永年的に取得し町の財源を潤すと共に、本ダムや大内ダムを湯野上温泉を絡め観光開発に資そうとする構想であった。そして町長に就任するや逸早く建設省に赴き、下郷町は発電所を町内に設置するなら積極的に協力するが他所になら協力しない、との明快な態度を表示し、これが実現方を強く陳情した。裏には、当時若松市が誘致運動を進めているという情報があったからである。
 続いて損失補償問題が本格化するや、町長は中間の調停的立場に位置し、日夜となく地元民と話し合い、その要望を充分把握すると共に、無理なことはよく個々を説得し、生活再建のため必要と思うところは強硬に当局と談判した。当局側も次第に氏の人柄を認識し、この人に委せれば解決が早いとの信頼感を深め、斡旋功を奏して、昭和四十九年八月遂にダム損失補償基準の調印式を迎えるに至った。 その後、工事は着々と進捗して茲に立派なダムが完成したのである。
 氏はこうした大問題に取り組み乍らも、その町長在任二期八年間に遺した事績は統合中学校の建設はじめ枚挙に暇がなく、下郷町を画期的に躍進させたと謂われている。斯くしてその生命力を燃焼し尽くしたためか、昭和五十四年三月十五日病に因り惜しくも七十一歳にして逝去された。町長退任後僅か四ヶ月半のことである。のちに国より、正六位、勲五等、雙光旭日章を追贈される。  ここに有し相計り、故星信平氏の偉大なる功業を偲ぶよすがとして、氏が最も心血を注ぎ、下郷町に永年の益を齎す大川ダムの地を選び、顕彰碑を建立し、以てその英霊に感謝しようとするものである。  昭和六十二年八月吉日 渡部 明撰文


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