日本の川に戻る 信濃川に戻る Last update 2003/06/23
野積橋から河口をみる
第二床固附近から下流(野積橋)をみる
副堰堤下流の軟岩露岩部
副堰堤
第二床固附近から下流をみる
第二床固
第二床固
第二床固附近右岸から上流をみる
渡部橋から下流をみる
石港床留
石港床留
渡部城跡
昔のことは史書に記されてもいるがあきらかでない。上杉時代には別名「扇山城」ともいわれており、現在の参道から頂上にかけて腰曲輪、三の曲輪、二の曲輪、本丸。そして反対側には狼煙台、空堀跡などが確認される。
その時代では北方の黒滝城の将士が守っており、危急の場合は狼煙をあげて南方の夏戸城へ報せるなど、防衛上の要衝であった。越佐史料によれば、天正七(一五七九)年上杉景虎の残党、神餘親綱(三条城主)が黒滝城と共に渡部城も攻めたが、黒滝城将山岸秀能がこれを撃退している(御館の乱)。
慶長三(一五九八)年上杉景勝は会津移封となり替って堀秀治が春日山城主になると、その重将柴田佐渡守勝全を一万三千石で渡部城主とした。しかし同七(一六〇二)年ころ、柴田勝全は関ヶ原合戦をめぐって堀氏と争い、同城を退転したまま廃城となった。明治四十二(一九〇九)年、信濃川分水工事のため、北川斜面は幾分削り取られたが、主要部は昔の面影を留めている。
なお現在は頂上部に菅原神社(本社)及び住吉社等(摂社)と石祠六社がある。
分水町教育委員会
渡部橋を左岸下流からみる
渡部橋左岸下流高水護岸
鉄線カゴ型護岸
渡部橋から上流をみる
渡部橋右岸上流低水護岸
災害復旧で施工されたもの
可動堰から下流を見る
第一床固がみえる
可動堰右岸下流堤防の状況
可動堰
可動堰ゲート
可動堰から上流をみる
西川取水及び注水樋管
可動堰上流右岸
洗堰
旧洗堰流入部
旧大河津出張所
大河津資料館として大河津分水工事の資料等を公開している
分水工事に用いられた掘削機械の模型
大河津資料館展示品
新信濃川縦断及平面図
当初計画高水位、自在堰倒壊後の河床及び新計画高水位等が記載されている
(大河津資料館展示)