福豊十六人衆碑

Go Index 日本の川に戻る 木曽川水系へ戻る 木曽川に戻る Last update 2006/11/25


三重県桑名市長島町 木曽川左岸3k1付近 伊曽島神社境内

福豊十六人衆
福豊新田は寛文八年豊松新田と元禄六年福井新田が開発され明治十二年合併し福豊と改 めた.其の後天和元年と天和三年破堤洪水に見舞われ溺死者、家屋流失を生じ引続き 宝永八年九月十六日の大風高浪入水以来十九年間亡所となり農地を失ひ日々の食さえ事 を欠き窮乏其の極に達し其の状況の中十六名は享保十年意を決し連判血盟し捨身に なって直訴を計画同年九月老中及び代官辻甚太郎の伊勢参宮の帰路待受け桑名町屋 川橋北詰で直訴を行ったが再三突戻され更に屈することなく桑名川口の七里の渡し場にて 繰り返し遂に老中は此れを採約し一同は打縄江戸表に送られ揚屋入りとなった.幕府老 中は直訴の件詮議した上再築認可の方針を決定十六名は帰郷を許され工事着工の準 備に取りかかったのである 当時の幕府は財政困難なので工事費の捻出出来ないので十 六人は老中より資金調達の命を受け各地の富豪に依頼し廻った 尾州熱田の加藤甚左エ 門外七名の出資により多年の念願がかなった 享保十二年新田再築工事着工、同年十三 年竣工した 新開地五十町七反五畝 工事費四千三十五両也
十六人の犠牲的精神と献身的活動に村民は報恩の為十六人衆を祖霊社に祀り十月十 六日を祭日とし祭礼を絶やさない
 この功績を後世に残すためこの碑を建立する
  昭和五十九年十月十六日 福豊十六人衆後裔 伊曽島村史より

十六人衆
儀左衛門
  後裔 伊藤銀松
平藏
  後裔 早川善平
  分家 早川一夫
  分家 早川 明
彦三郎
  後裔 浅井 勇
  分家 浅井三郎
  分家 浅井勇二
伝次郎
  分家 早川秋雄
  分家 早川 務
伝右衛門
  後裔 水谷東湖
長左衛門
  分家 諸戸清一
三郎右衛門
  分家 早川 了
与惣右衛門
五右衛門
源助
惣兵衛
次郎兵衛
源左衛門
善兵衛
弥平
長助


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