髙木家陣屋跡

日本の川と災害 > 日本の川 > 木曽川水系 > 宝暦治水と薩摩義士 > 髙木家陣屋跡  Last update 2007/02/12


大垣市上石津町宮





旗本西髙木家陣屋跡
(平成八年七月九日 岐阜県史跡指定)
西髙木家の遺構
高台にあり、見上げる石垣、裏を取り巻く中谷川、 加竜谷川が天然の要塞を作っている。土地の面積は 一万七千三百八十四、二三m2である。
・埋門  文化十二年(一八一五)に完成、現在石積みのみ残る
・表門  嘉永五年(一八五二)十一月建設
・主屋  明治二十九年(一八九六)十一月建設
・井戸  三基(井戸館なし)
・墓石群 関ケ原合戦後、入郷以来の歴代領主とその一族、約四十基がある。

髙木家の歴史
髙木家は、清和源氏源頼親を祖とし大和の髙木村に 住み氏とした。 その後伊勢国に移り室町時代の 中頃には美濃国石津郡駒野に住し斎藤道三や 織田信長に従い駒野、今尾を与えられこの地方を 根拠としていた。信長亡き後は信雄に従い、 秀吉により信雄が秋田に還流されると貞利は一族と 共に甲州(山梨)の加藤光泰の許へ寓居した。
文禄四年貞利は徳川家康に召され上総国で千石を 与えられ、慶長五年関ケ原の軍功により時・多良郷 の内、貞利(西家)二千三百石貞友(乗家)千石、 貞俊(北家)千石を拝領、翌六年入部した。
この三家は交代寄合美濃衆といい、大名格で寓せら れ参勤交代を行い江戸期を通じ在地して所領や周辺 の治安維持に当たり明治に至った。また、寛永 元年以来国役普請奉行を勤めこの後水行奉行に任ぜ られ濃・勢・尾州の川通りを年々巡検し水利治水 事業に当たっていた。

岐阜県史跡
旗本西髙木家陣屋跡
岐阜県教育委員会

高木三家入郷地

(裏面)
碑石建設者
明治三十五年秋 髙木貞正 髙木貞嘉

美の衆陣屋跡
 前岐阜県知事 上松陽助書



(裏面)
     記
         上石津町教育委員会
一.江戸幕府の交代寄合の中、四衆とは那須衆、美濃衆、信濃衆、三河衆をいう。
一.美濃衆とは高木三家をいい、隔年の参勤交代をし殿中御用に出仕した。在所にあっては国境の警備と地域開発に尽くすと共に、濃、尾、勢三州の普請奉行を司り、二百有余年間木曽三川の水行事業に尽くした功績は絶大なものがあり高く評価されている。中でも宝暦治水は未曽有の大難工事で幕府役人として監督の立場にあり、苦難の末無事完成させたことは余りにも有名である。
一.高木家は源頼親を祖とする大和源氏高木判官代名家である。
  平成元年十一月吉日
   寄進人
    養老郡上石津町大字奥
      福長 渡





大垣市重要文化財
交代寄合東髙木家土蔵
 東髙木家の先祖は、関ヶ原合戦以前は斎藤道三や織田信長に仕え、駒野城に在ったが後、徳川家康に従い関東に采地を与えられた。
 関ヶ原合戦後、多良に入郷し西髙木家、北髙木家と共に大名の格式を許され、参勤交代も行い江戸期を通して濃州・勢州、尾州川々の水行奉行として活躍した。
 土蔵は東髙木家の陣屋跡にあり、旧伊勢街道筋に一棟、老松と共に昔の名残を留めている文政年間の建物と伝えられ、大正十年と昭和五十四年の二度改修がなされ今日に至っている。土蔵の外壁は「なまこ壁」(瓦を張り付け、漆喰で縁取りする)が施され白壁造りのどっしりとした構造である。
    大垣市教育委員会


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