常音寺 薩摩義士墓・位牌

Go Index 日本の川に戻る 木曽川水系に戻る 宝暦治水に戻る Last update 2006/12/03


宝暦治水 薩摩義士之墓
公爵島津忠重書

昭和十年五月建立

表だって薩摩義士の弔いができなかった時代、左の石を墓石にみたてていたという

常音寺に葬られた薩摩義士
松崎仲右衛門 高雲丹月居士  宝暦四年八月三日 割腹
尾上与兵衛 弥阿浄円信士 宝暦四年七日十二日 病死
六左衛門(性不祥) 本岳浄心信士 宝暦四年八目二八日 病死
田中善兵衛 浄阿宗清信士 宝暦四年十月十五日 病死
森権四郎 一阿円心信士 宝暦四年十二月八日 病死


 薩摩義士墓所(二基)
 宝暦年間(一七五三〜一七五五)木曽三川の治水工事 に際しお手伝い普請に当った薩摩藩が難工事を臆せず勇 猛心をもって短期間に所期の目的を果したが、その間八 十余名の犠牲者と予算を超えた莫大な借財の責任の為、 総奉行平田靱負翁もまた、自刃するに至った。これら義 士の墓所は岐阜県、三重県下に十五ヶ所に埋葬され多度 町では、ここ常吉寺の一ヶ所のみである。向って左側の 墓石は当時徳川幕府の支配下(薩摩藩は豊臣側)であっ たので公に埋葬できなかった為、常音寺が代々お守りし ているお墓を、薩摩義士五名のお墓として昭和十年まで お守りしていた(明治三十三年十二月に大法要が営まれ た時の写真が残っている)昭和十年に右側のお墓を建立 し、毎年五月に大法要を営んであります。
 平成七年は、宝暦治水総奉行平田靭負正輔翁が自害し た宝暦五年(一七五五年)から数えて二百四十年目に当 りここに、松崎仲右衛門他に四名の出身地の由縁のふる さとの木”ザボン”(鹿児島県の木)”かいこうず”(鹿 児島県の花)”ミヤマキリシマ”(鹿児島市の花)夾竹桃 を平成七年春に記念植樹を行い、義士五名の御魂を慰め 偉業に対し報恩感謝し、顕彰してあります。
 平成七年 月
             多度町薩摩義士事績顕彰会

多度町指定文化財
 宝暦治水史蹟 常音寺
 この常音寺は、室町時代の応永十一(一四〇四)年、時 宗(じしゅう)の末寺として開基されましたが、のち第二 次大戦後、浄土真宗大谷派に改宗されました。
 木曽三川は流域が広く、百輪中と言われるほど多くの輪 中があり、川の流れは複雑でした。このため常に洪水の危 険にさらされ、この流れを修正する必要がありました。
 そこで江戸幕府は、寛延元(一七四八)年の工事に続く 第二期工事として、宝暦四・五(一七五三・一七五四)年 に、薩摩藩に命じ、いわゆる宝暦治水を実施させました。
 こうして、薩摩藩は長期間にわたる難工事の結果、四十 万両(薩摩藩収納米二年分)という多額の借財を背負いこ んだのです。
 また、薩摩藩は、総奉行平田靱負(ひらたゆきえ)以下 八十四名の犠牲者を出しました。このうち次の五名の菩提 寺(ぼだいじ)が常音寺です。
 松崎仲右衛門 〔宝暦四年八月三日割腹〕
 尾上与兵衛 〔宝暦四年七日十二日病死〕
 六左衛門(性不祥) 〔宝暦四年八目二八日病死〕
 田中善兵衛 〔宝暦四年十月十五日病死〕
 森権四郎 〔宝暦四年十二月八日病死〕
なお現在常音寺には、昭和十年に建立された墓碑一基の ほか、治水工事全犠牲者の大きな位牌(多度町戸津故西田 喜兵衛氏寄贈)をまつっています。
             桑名市教育委員会

烈義忠誠
節岑了操居士

(幕府側を含む84名の法名を菩提寺別に記載)

(裏面)
表面に列序スルハ宝暦治水工事ノ爲メ義歿セル旧薩摩藩平田靱負氏 始メ八十四士ノ法號ニシテ其俗名及埋葬地等ノ詳細ハ千本松ニ建設ノ 記念碑ニ彫刻シアルヲ以テ茲ニ略ス
此位牌ハ明治三十六年三月新調寄附スル者也
施主 西田喜兵衛


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