豊川 河口〜吉田大橋

Go Index Back 豊川水系へ戻る Last update 2002/01/28


豊川橋から上流をみる

国道23号渡津橋から下流をみる

国道23号渡津橋

東海道新幹線から下流をみる

国土交通省豊橋出張所屋上から下流をみる

国土交通省豊橋出張所屋上から上流をみる

国土交通省豊橋出張所

出張所に豊川かわっこ資料館が併設されている

出張所付近高水敷

5k100付近左岸堤防



5k200付近左岸から上流(豊橋)をみる

豊橋

昭和61年3月竣工

豊橋から下流をみる

豊橋上流左岸護岸

豊橋から上流をみる

豊橋上流左岸の句碑

 記

 この句は俳聖芭蕉の門人新城の太田白雪が京都の***桃先で結んだ三吟の連***で,元禄十四年(一七〇一年)白雪編の「きれきれ」に載っています。
 当時の吉田大橋の上から白雪が眺めて豊川の河口から遡上してきた白魚が吉田城の城下までのぼった景を詠んだ珍しい句です。
 豊川が,この景のような清流に再びよみがえることを願って句碑を建てた。
 平成九年三月十二日
(***は判読不能)

5k600 豊橋水位観測所

豊川水系豊川
国土交通省豊橋水位観測所
大正6年設置
零点高-1.32m 河口から5.66km
警戒水位3.50m 計画高水位6.16m
中部地方整備局豊橋工事事務所



5k700付近左岸から上流(国道1号吉田大橋)をみる

従五位勲四等
植田九一先生顕彰碑

(裏面記載内容)
 豊川は,昭和四十年豊川放水路が完成するまでは,堤防欠壊による大災害を防止するために設けられた霞堤から侵入する冠水被害は農作物は勿論,家屋人畜に及び地域の発展を阻害した。
 豊川放水路は地域住民の期待に応えるために,昭和十三年豊川の直轄改修事業として着手されたが,戦時体制下のため工事は着工されなかった。
 植田九一氏は戦後,地域住民の切望する豊川放水路着工のため家業をなげうって東奔西走し,昭和二十五年七月十九日豊川改修期成同盟会を発足させ,地域全体の人々にも呼びかけ,昭和二十八年八月十二日愛知県豊川改修工事促進期成同盟会の結成となった。
 豊川放水路工事は本格的に事業が進められ遂に昭和四十年六月に竣工し,豊川右岸の霞堤は締切られ本流の改修工事も遂行された。以来洪水による被害は無くなり,今日の如く関係地域の発展を見るに至った。
 植田九一氏はこの事業遂行のため,昭和三十年五月から市議会議員となり豊川改修事業促進のため,日夜献身的に努力した。昭和四十六年五月より昭和四十八年五月まで豊橋市議会議長を勤め,愛知県市議会議長会会長の要職に就き,公共事業促進の水源地域対策のための立法にも努力された。
 昭和四十七年二月に発足した豊川水系総合開発促進期成同盟会理事として,朝倉川並びに神田川改修促進期成同盟会の顧問として適切な指導をされた。
 植田九一氏の豊川水系にかかる治水事業促進に貢献された功績を讃え,ここに碑を建立する。
 平成七年二月吉日 豊川改修期成同盟会

吉田大橋付近から下流をみる


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