小川閘門品井沼排水工事記念誌

Go Index Back 鎌田三之助に戻る Last update 2004/03/28






 品井沼排水工事記念
品井沼排水工事ハ藩祖伊達政宗公ノ偉業ニシテ遠ク元禄年中二條ノ隧道ヲ掘鑿シテ元禄潜穴ト謂ヒ松島湾ニ注ギタリ高城川之レ也以テ沿岸村落ノ水害ヲ除キ次イテ新墾地ヲ得タリシモ淋雨洪水毎ニ沼底嵩マリ水害ヲ被ムル事年ト共ニ加ハリ昔日ハ三年ニ一度ノ収穫アレハ足ルト唱ヒシモノ今日ハ十年ニ一度ノ収穫モ覺束ナク沿岸村民離村ノ止ムナキニ至レリ於是か罹災村ノ有志ハ謂フニ及ハス縣内外ノ志士亦猛然トシテ起チ救濟ニ奔走シテ或ハ生命或ハ財産ヲ喪失スルモノ指ヲ僂スルニ遑ナキ惨状ニ至レリ明治三十七八年穀類登實充分ナラス民ニ菜色アリ沿岸村民被害最モ多シ於此時官之レカ救濟工事トシテ起工ヲ許可セラリタリ以此品井沼水害豫防組合ハ明治三十九年九十萬圓を以テ新タニ四條ノ隧道ヲ増堀シテ沿岸三郡五ヶ村既成田八百町歩ノ水害ヲ除キ更ニ千有餘町歩ノ新墾地ヲ得可キ計画成リ久シク暗黒ナリシ沿岸村ニ鮮ヤカナル新光明ヲ見出ス事ヲ得タルハ其ノ喜ヒ如何ソヤ瀕死ノ沿岸村民皆蘇生ノ想ヲナセリ此ノ扉ハ即チ品井沼ヨリ鳴瀬川ニ注キタル小川ノ聨絡ヲ絶チテ沿岸既成地ノ水害ヲ除去ス可キ第一期工事ニシテ小川下流鳴瀬川流域ヲ擴メ同時ニ小川ニ工費五千六百八拾圓ヲ要シタル閘門ヲ設置セリ門ハ四門ニシテ八扉ノ構造ナリ明治三十九年四月一日着手同年十二月三十日竣工セリ試驗ノ結果閘門ノ要ヲ認メス官ニ請フテ大正二年遂ニ廢止スルニ至レリ三百年以來ノ懸案タル
 昔日ヨリ田ニモ畑ニモ品井沼
  馬鹿ナ狐カ開墾ト鳴ク
ト謂フ謎ノ排水工事完成ヲ期スル第一期工事ニシテ鳴瀬ノ大洪水ニ對シ悪銭苦闘八ヶ年沿岸村ノ水害ヲ免ルルモノ一再ニシテ止マラス村民ノ依テ以テ離散ヲ免カレタル恩義アル閘門ノ廢止ヲ弊履ヲ棄ツルカ如キ無情ヲ敢テスルニ忍ヒス殘骸ノ一部ヲ最モ關係ノ厚キ本村小學校ノ門扉ニ代用シテ記念ノ爲之ヲ永遠ニ保存セントス
 昭和五年十月十三日 鎌田三之助誌

 校門の由来
 ここに建てられている校門は、昔鳴瀬川に注いでいた小川にすえつけられた閘門(水門)八枚の扉のうち二枚である。
 昔は吉田川、鶴田川は品井沼に注ぎ、そこから小川となり鳴瀬川に流れていたが、大雨や洪水になると鳴瀬川が増水して品井沼に逆流し、大変な水害をこうむっていた。
 逆流を防ぐため元禄時代に二子屋に潜穴(トンネル)四本を掘り、その出口に閘門をとりつけた。
 その閘門も古くなったので、明治三十九年四月、新たに四つの閘門に八枚の扉をつけた小川閘門が着工され、同十二月に完成した。
 閘門の完成後は鳴瀬川の逆流をくいとめ、品井沼の水害を少なくすることができた。
 その後鳴瀬川の改修工事や新吉田川が作られたことにより閘門は不要となり、八年後の大正二年に取りはずされることになった。
 鎌田三之助村長は、水害から守ってくれたこの閘門をただ捨てることは偲びないとして、品井沼干拓の歴史を長く後世に伝えるため、昭和五年十月鹿島台小学校の校門にされたものである。
 昭和六十三年十一月十日
 鹿島台町教育委員会


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