治水・利水・災害対策に尽くした人々に戻る Last update 2006/06/16
かわむらずいけん
元和4年(1618)2月〜元禄12年(1699)
伊勢国度会郡東宮村に生まれる。
車力から身を起こし実業家となる。その才覚を幕府から見込まれ、海運、舟運を開くとともに淀川等の治水・利水事業を指導した。
元禄12年6月16日死去、法号英正院伝籌瑞賢居士。鎌倉建長寺山内の金剛院跡に葬られた。
寛文10年、幕府により信夫郡の官米を江戸に廻船することを命じられ、江戸〜荒浜の海運路と阿武隈川の調査を行った。翌寛文11年廻漕を成功させると、幕府は瑞賢に出羽国最上郡の天領米の廻船を命じ、寛文12年、酒田からの西廻航路を整備した。これらの廻船は瑞賢以前から行われていたものであるが、瑞賢は寄港地を定め御城米船に保護を加えるなど、廻船の仕組みを整えたため、安全性が飛躍的に向上した。
天和3年(1683)幕府による若年寄稲葉石見守正休,大目付彦坂壱岐守重紹,勘定頭大岡備前守清重の畿内巡視に随行、淀川流域を視察。
貞享元年(1684)、大坂にて工事に着手、現在の安治川の開削、堂島川の浚渫などを行った。
高田藩家老小栗美作守正矩による保倉川の付替(関川に合流させることにより関川河口を維持)、港の整備(延宝2年)、関川浚渫による舟運路の確保を指導した。