青木制水門

Go Index 日本の川に戻る 宮城県内の川に戻る 定川水系に戻る Last update 2002/09/11


青木定盤出口(下流側)



青木制水門(上流側)

青木制水門の由来

 明治25年の著名な「遠桃事件」に代表されるように当地域は、地区中央部を南北に走る旭山丘陵に二分された極めて排水不良の耕地で、藩政時代から上下流(東西)の利害が相反し水争いが絶えなかった。即ち西部地区の排水は一度降雨出水すれば、江合・鳴瀬川の水位上昇に伴い明治水門及び鞍坪遂道の逆水門扉が閉鎖され、地区内排水は僅か青木定盤より定川に、5m3/sの排除に制約されるため湛水による被害は甚大てあった。他方東部地区は定川の平水位より低い所が大部分を占め、定時排水不良なるに加えて定川の荒廃も著しく一層の被害を助長していた。これらを抜本的に改修すべく国営定川農業水利事業が施工されたが、当事業の最重要施設である、青木制水門(青木定盤)の流下量間題で上下流の意見調整に難渋したものの、関係者の協定により19.17m3/sに決定した。その後、昭和32年鳴子ダムの完成により江合川の高水位が低下されることとなり、出来川の江合川への単独排水が可能となったのと、下流部定川改修計画についても所要の断面に変更し、各排水機場には常時用と洪水時用2基に分割すること等の計画変更がなされ青木定盤の流下量を25.0m3/sにしたのてある。
 昭和40年度に完成したが、先人各位の情熱と関係者の深い御理解により遠桃を分ける上下流の、永く深刻な水利の矛盾対立を基本的に解消した。



国営土地改良事業
定川排水改良碑
東北農政局長石井一雄書

(裏面)
 定川農業水利事業の関係地域は、江合川 北上川と鳴瀬川にはさまれた約壱万ヘクタールの穀倉地帯である。
 かつては当地域に一度降雨出水すれば江合川 鳴瀬川の水位上昇に伴い 明治水門および鞍坪隧道の逆水樋門が閉鎖し わずかに青木定盤から定川へ制約された水量が排除されるだけで 当地域は長時間排水不能の状況となり甚大な被害をうけていた
 当地域の抜本的排水改良を行なうため大同団結された地元関係者の強い要望により 昭和弐拾弐年度から調査計画にはいり 昭和弐拾六年度国営定川農業水利事業として着工し 以来今日まで拾九年の歳月を経て 出来川拾八キロメートル 鞍坪川拾五・弐キロメートル 青木定川弐拾四・六キロメートルの改修とその附帯構造物および七ヶ所の排水機場の工事等を実施し 昭和四拾五年参月に工事を完了した
 当事業を素地として今後当地域の明るく豊かな農業の実現を祈念するとともに 出来川から江合川へ 鞍坪川から鳴瀬川へ そして定川から石巻湾へと流れ去る水には 当事業に関係した幾多の人々の 苦しみをこえた喜びと将来への大きな希望が託されていることを ここに記す

 昭和四拾五年参月
 東北農政局

青木制水門から上流をみる


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