清武川 新井手頭首工

Go Index 日本の川に戻る 宮崎県内の川に戻る 清武川に戻る Last update 2002/11/30


新井手頭首工

ラバー堰であるが非かんがい期であるため倒伏している
水叩き下流は洗掘されているが、この下流河道は河床低下しておらず局部的浸食である

現地説明板

正面図部分の拡大

 松井堰は、宮崎郡清武町新町を流れる清武川に水源を求め、宮崎市の岩切、本郷北方、本郷南方、田吉、恒久等の水田約220ヘクタールを灌漑するものとしてその歴史は古く、今から約360年前の寛永16年(1639年)に、旧飫肥藩清武郷松井五郎兵衛儀長(まついごろべえよしなが)が井堰を設け用水路の改作を行い、翌17年3月に完成しました。
 天水田による農民の生活は、少しの日照りでも、干害を受け、その年によっては収穫皆無の状態もありました。そんな農民の生活と、藩の財政の安定をはかるためには、どうしても水が必要だったのです。松井五郎兵衛は70歳の高齢でありましたが、工事の遂行に命をかけ飫肥藩主伊東祐久(いとうすけひさ)の了解を得て11キロメートルにおよぶ、松井用水路を完成させました。
 これも一朝一夕に成ったものでなく、ここに至るまでの松井五郎兵衛の惨苦は、形容し難いものがあったとおもわれます。
 しかし、当時の井堰は、杭打ち粗朶がらみ三段式木枠石張りであり、洪水ごとに決壊と復旧のくりかえしが300年余も続きました。その後、地元の強い要望もあり、昭和7年から9年にかけて井堰と用水路の改修工事が行われ、井堰は玉石コンクリート造りに、用水路はコンクリート造りとして2146メートルが生まれ変わり、受益面積も拡大され559町歩にもおよびました。
 松井堰は、後に新井手用水堰と呼ばれ現在は、「新井手頭首工」の名称で親しまれています。清武川の左岸堤防上には、「堰堤改良記念碑」と刻まれた立派な記念碑が建てられていますが、この先人たちの功績や遺徳はこの世から永久に消え去ることなく、いつまでも語り継がれていくことでしょう。
(現地説明板より)


Go Index 日本の川に戻る 宮崎県内の川に戻る 清武川に戻る upページトップへ

kasen.net Copyright (C) 2000-