西田橋

Go Index 日本の川に戻る 鹿児島県内の川に戻る 石橋記念公園に戻る Last update 2006/06/05
















西田橋御門

 西田橋の左岸側にはかつて御門があり、城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。西田橋解体時に行った取付道路の発掘調査では、その礎石の根石が一部発見されました。
 なお、明六ツ(午前6時頃)に開門し暮六ツ(午後6時頃)に閉門していたそうです。













西田橋の梯子洞木

西田橋の基礎構造
 総重量2,000トンにもおよぶ石橋。それを支えるアーチの基礎は、河床に敷いた梯子胴木の上に直方体の切石を載せただけの構造です。梯子洞木はクロマツで作られ、水の中では何百年も腐らないといわれています。
 これは西田橋に使われていたもので、劣化防止の保存処理をしています。

 西田橋は、江戸時代、鶴丸城から九州街道へ至る島津家参勤交代の道筋にあり、城下の玄関口としての役割がありました。この橋はかつて木造の橋でしたが、城下整備の一環として、甲突川改修と合わせて弘化3年(1846)に石橋に架け替えられたものです。
 西田橋は、石橋への架け替えの際にも木橋時代の青銅擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄とするなど藩の威光を誇示した橋で、また、橋の側面に踏ん張りを持たせ、側面の石積み(壁石)を扇状にするとともに、二重アーチに見せる技法も西田橋から用いるなど岩永三五郎の技法的特徴が十分に発揮された生涯の傑作といえます。甲突川の五石橋を代表する橋として、昭和28年(1953)県指定有形文化財(建造物)に指定されています。
 西田橋は、創建以来150年間、交通手段など社会環境の変化に対応して幾つかの改変を受けながら、現役の橋として使用されてきましたが、平成5年(1993)の8.6水害後の甲突川抜本改修に合わせて、この地に移設して保存することになりました。
 移設に当たっては、改変など歴史的事実を踏まえ、現場に残された痕跡などを調査した結果、おおむね創建当時の状況が把握できたことから、復元は、当時の技術水準や経済事情を繁栄しながら、構造的、美的意図がもっともよく現れた創建時の姿を基本に行いました。




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