倉敷の碑

Go Index 日本の川に戻る 沖縄県内の川に戻る 比謝川に戻る 与那原川に戻る 倉敷ダムに戻る Last update 2004/04/04




倉敷について

 「倉敷」という地名は、首里王府時代に上納する産物の倉屋敷があったことか ら名付けられたといわれている。また、古くは、500〜600年前に大工廻と 知花の祖先が住んでいたとの言い伝えもあり、ダム湖周辺には現在でも大工廻の 拝所である「クボウ御獄」があり、ダム湖底にも井泉や知花の名が付く田畑など が残っている。
 近年、本格的に倉敷地区に入植が始まったのは、明治27(1984)年頃で ある。開墾は、廃藩置県後に困窮した首里・那覇の武士らが主体となり新しい時 代の生活を確立することを目的に村づくりがなされた。開墾は大変困難を極めた が、昭和10(1935)年頃にはほぼ生活は安定し、昭和17(1942)年 前後には御殿敷から分離し行政字倉敷となった。しかしながら、昭和20年初頭 には米軍の上陸が決定的となり、倉敷地区のほとんどの人々は戦禍を避けるため に北部へ疎開した。その後、米軍は上陸と同時にこの地区を弾薬庫として接収し さらに昭和36(1961)年には旧瑞慶山ダムを建設したために、この地を離 れた人々が帰郷することは不可能となった。
 本土復帰後、昭和58(1983)年には旧瑞慶山ダム貯水池が軍用地から返 還された。この時機と相前後して瑞慶山ダム再開発事業が具体化し始め、昭和6 1(1986)年には再開発工事に着手し、平成7(1995)年本体工事が完 了、現在に至っている。
 このような当地における貴重な生活の歴史、人々の倉敷に対する真摯な思いを 尊重し、ダムの名称を瑞慶山ダムから倉敷ダムへと変更するとともに、倉敷の地 と人々に敬意を表してこの記念碑を建立するものである。
                     平成7年5月吉日

ダム用地協力者名
地主会役員
会長 佐久間朝政
副会長 (以下略)
協力者名
沖縄市 (以下略)


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