唐桑町 巨釜・半造

Go Index 日本の海岸に戻る 宮城県の海岸に戻る Last update 2002/06/23












−「前九年の役と唐桑浜里の伝説」−
 康平五年(一〇六二)九月、鎮守府将軍、源頼義、義家親子の官軍は出羽の豪族、清原氏の援軍を受けて奥六郡の長、安倍貞任の拠点小松の柵、衣川の柵を攻撃した。大軍団の前に柵は次々と打破られ、さすがの勇猛な蝦夷軍団も退却を余儀なくされ、安倍の将兵達は陸奥の山野に身を隠す事になった。此の時、衣川から見て東の海道の浜里である唐桑は奇岩怪石の連なる恰好の隠栖地であり、川崎の柵(岩手県東磐井郡川崎村)や、黄海の柵(岩手県東磐井郡藤沢町)から退散してきた兵員達は山海の産物に恵まれ、風光明媚な此の唐桑の地を安住の場所と定め身を潜めたものと言われる。
此の為町内には前九年の役n縁の地名や名称が付いた場所が点在し、遙かな陸奥能美美智伝説の浜里として現在でもそのロマンが語り継がれている。

−矢止めの岩−
唐桑半島石浜沖合にある岩礁で、安部軍を追ってきた八幡太郎義家は、朝日に映える此の岩をめがけて豪弓を絞り「南無八幡大菩薩」と唱え、矢を放つと矢は唸りをあげて此の岩場迄飛んだと伝えられている。

「その他の伝説名称地」
−蝦夷狩−
唐桑半島南部中井地区に残されている地名で前九年の役の大勝利に勢いづく源義家軍は敗走する安倍軍を徹底追撃し続け、浜里に身を隠す兵員達を此の地に集めて捕縛したと伝えられる。

 民俗学者柳田国男は、再度遠野物語り取材に旅立った。
 大正九年八月十六日、岩手県盛町から大船渡を経て広田半島を横切り、西海岸の小集落を訪れ、十七日今泉から松の坂、小原木経由唐桑に入り宿浜で一泊した。(平坦部は人力車、山間部は徒歩か馬利用)十八日気仙沼、大島を訪れ一泊。十九日夕方気仙沼から三陸汽船で釜石に向かった。
 明治二十九年(一八九六)六月二十五日(旧暦五月節句の日)、三陸沿岸を襲った史上最大といわれる大津浪は、唐桑に大きな被害を与えた。死者八四五名、負傷者一六三名、流出家屋二一四戸。この時の惨状を土地の人から聞き、克明に「雪国の春」に書き記した。
その津浪の年から数えて今年は九十七年になる。これを記念し感謝をこめ、町民が結集して浄財を募り文学碑を建立した。
 平成五年二月吉日
 柳田国男文学碑建立実行委員会

二十五箇年後
 唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずの中、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯で潰れた。その残ったという家でも床の上に四尺あがり、時の間にさっと引いて、浮くほどの物は総て持って行ってしまった。その上に男の児を一人亡くした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。
道の傍に店を出している婆さんの処へ泊りに往って、明日はどことかへ御参りに行くのだから、戻っているように迎えにやったが、おら詣りとうなござんすと言って遂に永遠に還って来なかった。
この話をした婦人はその折十四歳であった。(以下略)
 (筑摩書房刊、柳田国男全集から)


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