昭和新山

日本の川と災害 > 日本の火山 > 昭和新山  Last update 2008/07/08






支笏洞爺国立公園特別保護地区
特別天然記念物 昭和新山
 目前にそびえる昭和新山は、私達に大自然のいとなみの不思議を物語ってくれます。
 今あなたの立っているこの一帯は、かつてはのどかな麦畑でしたが、突然火山活動の舞台となりました。昭和18年12月28日に激しい地震が始まり、多い時には身体に感じるものだけでも1日200回を越え、翌19年4月頃には元の地面から50mも隆起しました。
 さらに昭和19年6月23日、盛り上がった畑に噴火が始まり、7個の噴火口をつくりながら、4ヶ月も爆発を繰り返しました。その間も、田畑、民家(フカバ部落)、鉄道共々隆起が続き標高300mの台地(屋根山)をつくりました。11月になって噴火口群の中央から地中で固まった溶岩が推し上り始め、翌20年9月末に標高407mに達し、ようやくその活動を休止しました。
 今なお噴気を上げるピラミット型レンガ色の部分が溶岩塔で、このタイプの火山をベロニーテ型火山といい、世界的にも珍しい形式の火山です。

ミマツダイヤグラム
 昭和新山が誕生した頃は第二次世界大戦の末期で、軍部はこれを機密事項にし、火山学者も十分な調査・観測ができませんでした。ところが地元の郵便局長三松正夫(1888〜1977)さんは、この火山誕生の詳細な観察記録を残しました。それらはこの珍しい火山活動を分析するのに貴重な学術資料とされ、その一つが「ミマツダイヤクラム」です。
 三松さんの残した資料は、現在、山麓の「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)で保存、公開されています。
環境庁・北海道・壮瞥町
(財)自然公園美化管理財団





 昭和新山は昭和十八年暮れから二十年九月末にかけのどかな麦畑とフカバ部落を持ち上げ四ヶ月の爆発期を経て溶岩塔推上という珍しい現象を伴ってこの地に誕生した
 時は第二次世界大戦末期の混乱下にあり厳しい報道規制が敷かれ火山学者の十分な調査研究さえままならない頃であった
 この様な中にあって地元の壮瞥郵便局長三松正夫(一八八八 一九七七)は明治四十三年の有珠山噴火体験時に受けた学者の教えを想起し この火山活動を歴史の空白にしてはならないと 冷静な観察眼で創意工夫と努力想像を絶する苦難を重ねて火山誕生の経過を語る貴重な資料を世に残された
 更に敗戦の混乱の中 この新山を荒廃から護るため私財を投じて主要地域を購入
 万民の宝として保護に死力を尽くされ今日迄我々に自然のあるがままの姿を残された
 翁の私利私欲を越えた行動の意味を後世に語りつぐためにこの像をここに建立する
  平成三年十二月二十八日
  昭和新山生成五十周年記念事業実行委員会
   壮瞥町長 菅原俊一謹書

昭和新山美化センター

8:00-17:00(冬季9:00-16:00) 年末年始休館 入館無料
tel:0142-75-2241

昭和新山の誕生
昭和新山は世界で2つしか例のないベロニーテ火山で、2年にわたるその誕生のドラマは、大自然のいとなみの不思議さをありありと物語ります。

第1期 地震開始から地盤の隆起まで
昭18・12・28〜昭19・6・22
昭和18年12月28日、有珠山麓一帯に強い地震が起こり、休みなく余震がつづきました。1月5日ごろからは地震に加えて、ほうぼうで地盤の隆起と地割れが始まりました。4月ころには1日平均24cm、6月には150cmの隆起を記録しました。

第2期(爆発期)
昭19・6・23〜昭19・10・31
昭和19年6日23日、1回目の大爆発が起こり、これから10月31日までに7つの火口をつくり、17次の噴火をくりかえしました。この間にも土地はさらに隆起をつづけ、海抜300メートルの屋根山を形成しました。

第3期(熔岩丘形成期)
昭19・11〜昭20・9
ようやく爆発がおさまったが、火口から大きな熔岩が押し出され、昭和20年9月ごろには最高407メートルの熔岩丘となって活動を停止しました。現在は402.3メートル基底直径約300メートルといわれています。


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