伊達右衛門太夫宗高公之碑

Go Home back 蔵王山に戻る Last update 2008/07/08




伊達右衛門太夫宗高公之碑

 この碑は宗高公の偉績を顕揚する為大正十五年元厚生政務次官元衆議院議員庄司一郎先生が建立しましたが今回明治百年を記念して再建したものです
 昭和四十二年八月
 伊達宗高公顕揚会会長
 村田町長 大平良治

伊達宗高公命願之碑跡
宮城県知事 高橋進太郎書

明治百年記念事業として之を建つ
 昭和四十二年八月 伊達宗高公顕揚会

 政宗公の第七子 柴田刈田三萬石村田城主伊達右衛門太夫宗高公 紅顔十八歳の寛永元年 刈田嶽の大噴火に際し領民の惨状見るにしのびずと敢然この嶽に登り 大煙にむせびつつ身の危難を犯して命願をかけましたが その至誠天に通じ遂に鎮火を見るに至りました
 古来命願後三年以内にその命を天に召されるとされていましたが 同三年京都に於いて従五位下右衛門大尉に任ぜられ 二條城の守護にあたるうち 同八月十七日疱を患らいあたら花の蕾を散らしました 享年わずか二十歳
 龍島院殿涼山英清大居士と号し村田町龍島院に歸葬しました 先きに 公の遺徳を後世に傳えるため大正十五年三百年祭記念事業として記念碑を建てましたが風雪のため荒廃したので 今回 顕揚碑を建立しその霊を慰め遺徳を偲ぶこととした次第であります この事により平和な豊かな国土が建設されることを祈ってやみません なお公の顕揚事業に寄せられた諸賢の御芳志に對し 心から尊敬と感謝の意を表します
 昭和四十二年八月十七日伊達宗高公顕揚会会長
 村田町長 大平良治撰文

顕揚碑の修復について
昭和五十四年七月八日の落雷により台石が破壊され碑が倒伏したため同年八月二十四日に修復したものである
碑に残る縦の線状に奔る傷跡はその時の落雷による電流の跡である


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